後白河天皇
現代語訳
久寿元年 甲戌 1154年
神のお告げにより田辺浦より新宮へ白馬を献上した。
久寿2年 乙亥 1155年
11月、熊野三山に御幸。本宮で不思議な変異があった。新宮で自然と御戸が開き、神倉は大いに荒れた。
※『保元物語』ではこの年に鳥羽上皇が熊野御幸。史実としては1153年が鳥羽上皇最後の熊野御幸。後白河上皇の1回目の熊野御幸は1160年。
保元元年 丙子 1156年
熊野が牛王を奉った。
保元2年 丁丑 1157年
10月、大内裏造営。熊野では烏が多く海中に入って死んだ。
保元3年 戊寅 1158年
白河院御幸の御時に宜下により源為義の娘を別当・教真の妻になされたとのこと。
教真の妻に娘がいて、濱の女房とか申し、常に僧沙門の妻になることはできないと思っていて夜に走り出て、京都の門脇宰相殿(平教盛)の別妻となり、薩摩守忠度を生み、後にまた母子相共に別当に養われ、かの為義の娘を田鶴姫とも丹鶴姫ともいった。
玉ノ井橋に不思議なことがあった。
朝夕に見ればこそあれ熊野なる招く白露の魂の橋
丹鶴姫の墓は当城三ノ丸の所にあり、そこでこの山を丹鶴山という。浅野家が当城を築くとき、かの墓所を茶ヤリという所に遷したという。
原文
久寿 庚戌
依神告田辺浦ヨリ新宮へ白馬ヲ上ル
※庚戌は甲戌の間違い。
二 乙亥
十一月熊野三山御幸本宮神変新宮自御戸開神倉大荒
保元 丙子
クマノ奉牛王
二 丁丑
十月大内裏造営クマノ烏多海中ニ入テ死
三 戊寅
二月丹鶴死丹鶴山ニ寺ヲ営
白河院御幸ノ御砌依宜下 源氏為義ノ娘ヲ別当教真ノ妻ニナシ被下由教真ガ妻ニ娘アリ濱ノ女房トカヤ申常ニ僧沙門ノ妻ニナラン事ヲ不可也ト思ヒテ夜ニ走り出京都カトワキ宰相殿ノ別妻トナリ薩摩守忠度生後ニ又母子相共ニ別当ニヤシナハレ彼為義ノ娘ヲ田鶴姫トモ丹鶴姫トモ云 玉ノ井橋奇アリ
朝夕ニ見レハコソアレ熊野ナルヲク白露ノタマノイノ橋
丹鶴姫ノ墓当城三ノ丸ノ所ニアリ則此山ヲ丹鶴山ト云浅野家当城築クノ時カノ墓所ヲ茶ヤリト云所ニ遷スト云
(てつ)
2023.7.23 UP
参考文献
- 熊野速玉大社宮司 上野元監修・発行『速玉本 熊野年鑑』熊野速玉大社