昌俊、熊野参詣のための上京と言い逃れ
1 平清盛の熊野詣 2 藤原成親の配流 3 成経・康頼・俊寛の配流 4 平重盛の熊野詣
5 以仁王の挙兵 6 文覚上人の荒行 7 平清盛出生の秘密 8 平忠度の最期
9 平維盛の熊野詣 10 平維盛の入水 11 湛増、壇ノ浦へ 12 土佐房、斬られる
13 平六代の熊野詣 14 平忠房、斬られる
土佐房昌俊(とさのぼう しょうしゅん)はもとは源義朝に仕えた武士。出家し、その後、頼朝に仕え、源平の戦いに参加。
頼朝に無断で弟の義経が後白河上皇から判官の官位を授かったことなどから頼朝と義経が対立。頼朝は京にいる義経を暗殺することを決意。その役目を進んで引き受けたのが昌俊でした。昌俊は軍勢を率いて鎌倉を出発し、京に上りました。
『平家物語』巻第十二「土佐房被斬(とさぼうきられ)」より一部現代語訳
同じく(文治元年 1185年)9月29日、土佐房昌俊は都に着いたけれども、次の日まで判官殿(源義経)へも参上しなかった。昌俊が京に上ったことをお聞きになり、判官が武蔵坊弁慶を遣わしてお呼びになったところ、弁慶はすぐに昌俊を連れて参上した。
判官はおっしゃった、「どうして鎌倉殿(源頼朝)から御文がないのか」。
「さしたる用件がございません間は、御文は参りません。お言葉で申し上げろとおっしゃられましたことには、『その後、都に大した事件が起こらないのは、あなた(義経)が都におられるからだと私(頼朝)には思われます。慎重にして都をよく守護してください』とのことでございます」
判官が「まさかそうではあるまい。あなたは義経討ちに上ったお使いだ。『大名どもを差し向けて上京させれば、宇治・勢田の橋をもひき、都鄙の騒ぎとなってなかなか都合が悪かろう。あなたを上京させて物詣するようにたばかって討て』と仰せ付けられたのであろう」とおっしゃると、昌俊は大いに驚いて、「どうしてただ今そのようなことをございましょうか。神仏に以前からかけていた願によって、熊野参詣のために上京したのです」。
そのとき判官がおっしゃたのは「景時の讒言によって、義経は鎌倉へも入ることができない。見参をさえなさらないのに、追い上せらるというのはどういうことか」。
「そのことはどうでしょうか。わが身に限ってはまったくあなたさまへの腹黒はございません。起請文(きしょうもん:神仏にかけて誓う誓約書)を書きましょう」と昌俊が申し上げると、判官は、「どうせ私は鎌倉殿によく思っていただいていないよ」といって、たいそう機嫌悪くにおなりになった。
昌俊はとりあえず害を逃れるために、即座に七枚の起請文を書いて、ある物は焼いて灰にして飲み、ある物は社に納めるなどして、その場は許されて帰り、大番衆(おおばんじゅ:宮中を守る武士)に触れをめぐらしてその夜すぐに奇襲しようとする。
(現代語訳終了)
起請文の罰
熊野参詣のために上京したと言い、起請文も書いて逃れた土佐房昌俊でしたが、夜襲は事前に義経に察知されて失敗に終わり、昌俊は鞍馬山の奥に逃れました。しかし鞍馬山は義経の故郷、鞍馬山の僧徒に捕らえられ義経に引き渡されました。
義経が昌俊に「起請文の罰が当たったな」と言うと、昌俊は、からからと笑って「ないことをあるように書いたので罰が当たりました」。
起請文には寺社が発行するお札・牛王が用いられました。牛王の裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡したり、焼いて灰にして飲んだり、神社に納めたりしました。
牛王によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあれば、たちまち神罰を被るとされました。
様々な寺社から発行された牛王のなかで最も神聖視されたのが熊野の牛王でした。ここで熊野牛王が用いられたのかはわかりませんが。
「命が惜しくば鎌倉へ返しつかわすがどうか」と義経に聞かれると、「『法師であるが、お前だけが義経を狙える者だ』と、鎌倉殿の命令をいただいてからは、命を鎌倉殿に奉りました。どうして今さら鎌倉殿から命を返していただけますか。早く首をお取りなさい」。
「ならば斬れ」と、昌俊は六条河原で処刑されました。
(てつ)
2009.1.11 UP
2019.11.5 更新
参考文献
- 佐藤謙三校注『平家物語 (下巻) 』角川文庫ソフィア
- 梶原正昭・山下宏明 校注 新日本古典文学大系『平家物語 (下)』岩波書店
- 加藤隆久 編 『熊野三山信仰事典』戎光祥出版
- 水上勉『平家物語』学研M文庫
- 別冊太陽『熊野―異界への旅』平凡社
- 高野澄『すらすら読める「平家物語」』.PHP文庫
- 高野澄『熊野三山・七つの謎―日本人の死生観の源流を探る』祥伝社ノン・ポシェット
- 乾克己・小池正胤・志村有弘・高橋貢・鳥越文蔵 編『日本伝奇伝説大事典』角川書店