熊野詣を歌う宴曲
宴曲とは、中世、遊宴のときに歌われた歌曲です。
現存する宴曲は百数十曲。そのなかに熊野詣のことを歌った「熊野参詣」と題された曲がありますので、ご紹介します(『宴曲抄』上『続群書類従』一九下)。
その歌詞には熊野参詣のメインルート「中辺路」沿いの地名がたくさん登場します。今回は口語訳なしでご紹介します。
宴曲
その前に少し宴曲について。
中世の記録には「宴曲」という名称は見えず、「早歌(そうが)」というのが普通。拍子が早い歌なのでそのように名付けられました。
「早歌」を集めた撰集の代表的なものに『宴曲集』『宴曲抄』があり、そこから「早歌」を後に「宴曲」と呼ぶようになりました。
宴曲は、東国から始まった歌謡で、鎌倉時代中期ごろより流行しはじめ、神楽・催馬楽・今様のような叙情小曲でなく、叙事的な中長編歌謡として新しいひとつのジャンルを次第に確立。
宴曲の代表的な作者は鎌倉時代後期の明空。明空によって多くの宴曲が作詞され、また『宴曲集』『宴曲抄』『真曲抄』『究百集』などが撰集されました。
それでは宴曲「熊野参詣」を。長い歌ですが、お付き合いください。
宴曲「熊野参詣」
八相成道の無為の城、真如の台は広けれど、和光同塵の月の影は、やどらぬ草葉やなかるらん、さればや景行賢御代の事かとよ、南山の雲に跡を垂れて、星を連ぬる瑞籬に、誠の心をみがきつゝ、誰かは歩をはこばざらん、
或は五更に夢をさまし、夕陽に眠を除て、煩悩の垢をやすゝぐらむ、宵暁の去垢の水、所をいへば紀伊国や、此無漏の郡彦の山路の、雲の涛煙の浪を凌て、思立より白妙の、衣の袖を連つゝ、都を出道すがら、あの北に顧れば又大内山は霞つゝ、へだつる跡もとをざかり淀の河舟さしもげに、急とすれど在明の、名残はしゐて大江山に、かたぶく月やのこるらん、
行末をはるかに美豆の浪よする渚の院、此男山につゞける交野禁野の原、向の汀につのぐむ、芦の若葉を三島江や、難波も近成ぬらむ、九品津小坂郡戸の王子、過行方にやすらへば、武庫の山風おろしきて、浦吹送音までも、是や高津の宮柱、建て旧びし跡ならん、西をはるかに望めば、夕日浪にうかびて、淡路の瀬戸の夕なぎに、蘆手にまがふ薄霞、絵島の磯の遠津浦、
東に顧れば又、あの伽藍甍を並て、宝塔雲にかゞやき、一輪光を残つゝ、転法輪所を顕して、法灯今に絶せず、並たてる安部野の松に、鶴鳴わたる磯伝、君千年は津守の、恨をのこす事もなく、まいれば願を満潮の、入江の松をあらふ浪の、白木綿かゝる瑞籬、神冷まさる住吉の、千木の片そぎ立並、舞袖もおかしきは、王子々々の馴子舞、法施の声ぞ尊、
南無日本第一大霊験熊野参詣
秋の夜の暁深立こむる、切目の中山中々に、月にこゆればほのぼのと、天の戸しらむ方見えて、横雲かゝる梢は、そも岩代の松やらん、千里の浜をかへりみて、皆へだてこし道とをみ、万山行ば万の罪きえて、今はや出立田の部の浦、砂地白(2文字分の反復)とゆかば(砂地白くミゆるハイ)、白良の浜月影、影ぬ御代は秋津嶋の、神もさこそは照すらめ、
万呂の王子の神館、見すぐし難き稲葉峯、穂並もゆらとうちなびく、田頬を過て是や此、岩田の河の一の瀬、きゝのみわたりし流ならん、倩其の水上の、深誓をおもへば、浮たる此身のさすらひて、無始の罪障は重とも、さも消やすき泡の、哀あひがたき道に入れば岩こす浪の玉とちる、
涙も共にあらそひて、幾瀬に袖をぬらすらん、山河の打漲て落滝の尻、渡せる橋も頼母敷、彼岸につく心ちすれば、誰かはたのみをかけざらむ、王子々々の馴子舞、法施の声ぞ尊、
南無日本第一大霊験熊野参詣
山下に上を望ば、樹木枝をつらね、松柏緑陰しげく、道は盤巌折巔に通じて逆上、登々ては暫休石龕の辺、行行ては尚又幽々たりとかや、此雲に埋む峯なれば、げに高原の末とをみ、疑(凝か)敷岩根は大坂の、王子を過て行前も、はや近露にや成ぬらん、
檜曽原しげり木の下、木枯さむく雪ちれば、花かとまがふ継桜、岩神湯の河はるばると、御輿をこえて傍伝、閑谷人希也、鳥の一声、汀の氷、峰の雪、物ごとにさびしき色なれや、
うれしきかなや仰見て、是ぞ発心の門ときけば、入よりいとゞにごりなく、心のうちの水のみぞ、げに澄まさりて底清く、あらゆる罪も祓殿、御前の川は音無の、浪しづかなる流なればかや、
社壇軒を並て、あの三所権現若王子、五体四所の玉枢、満山の護法に至まで、或は久遠の如来も、常寂光の宮を出、或は闡提補処の菩薩、慈悲忍辱の姿を、しばらくかりにかくして、様々の利益を施す、
御正体の鏡は塵をはらひて陰なく、珠簾玉を厳つゝ、薫香風にかほるらん、向へる峰は備崎、行道もしられつゝ、惣持陀羅尼蘇多覧般若の声耳に満り、河船に法のしるべもうれしければ、いつか仏の御本へと、思ふ心を先立て、煩悩の浪をや分過、雲通荅路紫金瀬、取々なる道とかや、新宮は垂跡の始なり、
飛鳥の宮 神の蔵、先此山に顕はれ、此巫女が鼓も打憑、々をかくる木綿襁、佐野の浜松幾代経む、同緑の梢なれど、此二千石の号ありし、いかなる様なりけむ、
磯路を廻浜の宮、山路に向ふ坂本、那智の御山は安名尊、あの飛瀧権現御座、苔踏ならす岩がね、所々の霊窟、半天雲を穿て、三滝浪を重、峯より落滝下の、例時懺法声澄て、滝水漲音さびし、
かゝる流の清ければ、かたじけなくも陰なき、清和寛平花山より、代々の聖代も此所に、あれ今に絶ず御幸あれば、百王の末も瑞籬の、久しき神の御代なれば、我国やいつも栄ん、
南無日本第一大霊験熊野参詣
「熊野参詣」の歌詞の中で2度「南無日本第一大霊験熊野参詣」の文言が登場しますが、熊野は日本で一番の霊験あらたかな場所だと認められた特別な聖地でした。
(てつ)
2005.10.12 UP
2020.7.26 更新
2020.8.9 更新
参考文献
- 本宮町史編さん委員会『本宮町史 文化財編・古代中世資料編』本宮町