藤原定家の後鳥羽院熊野御幸随行日記(現代語訳5)
後鳥羽院の建仁元年(1201年)熊野御幸に随行した歌人、藤原定家(ふじわらのさだいえ、1162年~1241年)が書き残した日記『熊野道之間愚記(後鳥羽院熊野御幸記)』を現代語訳してご紹介します。5ページに分けて口語訳します。このページはラスト、10月21日か27日までの分。
- 藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳1 京~藤白
- 藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳2 藤白~田辺
- 藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳3 田辺~本宮
- 藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳4 本宮〜新宮〜那智〜本宮
- 藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳5 本宮~京
熊野道之間愚記 略之 建仁元年十月
二十一日 天気晴れ
明け方に御所に参る。
出御の間に前行して宝前に参り御拝した。
礼殿に入御する。
(宿所に還っての事)
また御加持があるだろうとのこと。
この間に退出して、先陣して馳せ走り、湯河で昼養して、近露の宿所に着く。
二十二日 天気晴れ
明け方に近露を出て、滝尻に下る。
マナゴ(※真砂)の小さな家で昼養して、未(※今の午後2時ごろ、および、午後1時ころから午後3時ころまで、または午後2時ころから午後4時ころまで)の一点くらいに田辺宿所に着く。
日が入った後、この宿所を出て切部を過ぎ、イハ○○(※石内)に入る。
明日、往路の三泊分の宿を越さなければならない。帰路は遠路なのに人が多くしようがないから、今夜このように迷惑する。
夜明けころに、この宿所に入って一寝する。
二十三日 天気晴れ
日の出の後、川を渡り小松原を過ぎ、シヽノセ山を越えて、午の初めころに湯浅宿所に入る。
ここで五郎という男が宿所を甚だ不相応にぜいたくにしてくれた。
(湯浅に入り五郎が過差にもてなしてくれた事)
予は感に堪えず、引いていた鹿毛(※かげ。茶褐色)の馬を餞(はなむけ)に与えた。
今日は思いがけず休息でき、終日寝た。
二十四日 天気曇り 雨が降っては時々止んだ
明け方に出発し、〔カフラサカ〕、藤代山を越える。
雨が甚しく道中うろたえて取り乱す。
藤白宿所に入り小食。
それが済んでまた出発。雨を凌いでヲノ山を越え、申の時のころに信達宿に入る〔御所近辺の仮屋である〕。
国の役人が果実などのささやかな物を送ってきた。
二十五日 天気晴れ
明け方に御所に参り、出御以前に出発。
大鳥居の小家で食事。食事が済んだ後に出て住吉・天王寺を過ぎナカラ(※長柄)宿所に入る。
(京家より範列が到来した。範列は船を伴っていた。)よってこの船で淀川を渡る。
ただしこの宿は細川庄成時の手配であるが、人が来ていないとのこと。
よってすぐに出発した。馳せ走って皆瀬宿に入る。
山崎の前々からの宿所である。今日は十五、六里を過ぎた。
御幸はナカラ(※長柄)より御船にお上りになったとのこと。一寝する。
二十六日 天気晴れ
鶏が鳴くころに、御幸が入御とのこと。
ただし只今すぐに出御とのこと。左中弁(※藤原長房)がこれを示し送る。よって急ぎ出る。
明け方のころ、鳥羽の御精進屋に入御。すぐまた出御(稲荷に御参拝の事)。御拝、御経供養はいつもの通り(この間に私的な奉幣。法筵(※ほうえん。仏法を説く所、説法の席)を渡るとのこと)。布施を取る(保家中将と予は導師の布施を取った)。
終わってすぐに入御。二条殿の儀はなおこの人数で参りなさいとのこと。しかしながら(※予は)小々の人々に知らせてこれより退出する。
九条に入って小食して、すぐに馳せ出て日吉に参る(すぐに日吉に社参の事)。予の宿願によってのことである。
馬場の辺りにおいて春宮権大夫(※藤原宗頼)に遭う。
未の時(※今の午後2時頃。また、午後1時から3時の間。一説に午後2時から4時の間)ころに参着する。奉幣して、すぐに馳せ帰る。
清閑寺の辺りで松明を取り、京に帰り、洗髪沐浴してから寝付く。
今夜は魚を食す。
二十七日
(道中の雑物を先達の許に送る事)
早朝、道中の雑物(※こまごまとしたもの。日常用いる雑多なもの)をことごとく水で洗い、また雑物などを取り集めて先達の許に送る。
これは恒例のことであるとのこと。
文義がこれを手配した。
(てつ)
2009.2.20 UP
2010.10.29 更新
2020.2.18 更新
参考文献
- 熊野御幸記(読み下し)- ゆーちゃん(歴史好きの百姓のペ-ジ)
- 『本宮町史 文化財篇・古代中世史料篇』