藤原定家の後鳥羽院熊野御幸随行日記(現代語訳2)
後鳥羽院の建仁元年(1201年)の熊野御幸に随行した歌人、藤原定家(ふじわらのさだいえ、1162年~1241年)が書き残した日記『熊野道之間愚記(後鳥羽院熊野御幸記)』を現代語訳してご紹介します。5ページに分けて口語訳します。このページは10月9日から12日までの分。
- 藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳1 京~藤白
- 藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳2 藤白~田辺
- 藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳3 田辺~本宮
- 藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳4 本宮〜新宮〜那智〜本宮
- 藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』現代語訳5 本宮~京
熊野道之間愚記 略之 建仁元年十月
九日 天気晴れ
朝の出立がすこぶる遅れたため、すでに王子(※藤白王子)の御前にて御経供養などを行なっているとのこと。
営みに参ろうとしたが、白拍子の間、雑人(※ぞうにん。身分の低い者)が多く立っていて、隔ててそこへ行けない。
無理に参ることはできずに素早くそこを出て、藤白坂をよじ登る〔五躰王子で相撲などがあったとのこと〕。道は険しくほとんど恐ろしいほど。また遠くに海を望む眺めは興が無いことはない。
塔下(トウゲ)王子に参り、次に〔藤代山を過ぎ〕橘下王子に参る。次にトコロ坂王子に参り、次に一壺(イチノツボ)王子に参る。次にカフラ坂を昇り、カフ下王子に参る。また険しい山道。次に山口王子に参る。
次に昼食所に入る〔宮原とのこと。御所を過ぎて小家に入る〕。次にいとか王子に参り、また険しい山を凌いでイトカ山を昇る。
下山の後、サカサマ王子に参る〔水が逆流することからこの名があるとのこと〕。
次にまた今日の湯浅の御宿を過ぎ、三四町(※1町は約109m)ばかり、小宅に入る。
上(国)より宛てがった例の仮屋があるが、この家主が雑事を設けているのでここに入る〔文義(※定家の雇った先達)の知り合いの男とのこと〕。
先の小宅に入っている間に、これから先の宿所をまた文儀の従者の男の手配で取る。
件の宅は憚りがあるとのことを聞き付ける。
よって小宅を騒ぎ出て宿所に入った〔先達はこのようなことは憚からないとのことを言われる。父の喪70日ほどとのこと〕。
そうだといっても臨時の水コリ〔をかいて〕、景義に祓わせた。また思うところあって潮コリを取ってかく。これは臨時の事である。
この湯浅の入江の辺りは松原の勝景が奇特である。
家長が歌題2首を送る。詠吟は疲労していて、甚だ術がない。
灯りをともして以後、また立烏帽子を着けて一夜のように参上。
しばらくして蔀の内に召し入れらる。また講師の事を仰ぐためである。終わってすぐに退出する。
題 深山紅葉 海辺冬月 愚詠
今日もまた2首当座
こゑたてぬあらしもふかき心あれや
みやまのもみぢみゆき待けり
(訳)声を立てない嵐にも深い心があるのだろうか。御山の紅葉が御幸を待っていたことだ。
くもりなきはまのまさこにきみのよの
かずさへ見ゆる冬の月かげ
(訳)曇ることなく澄んだ冬の月の光。その光に照らされてはっきりと見えている(吹上浜の)細かな砂(の粒の数の多さ)に、あなた様の齢の数までもが見えるようです。(後鳥羽上皇様、どうかお健やかにご長寿でお過ごしくださいませ。)
今日はもっぱら文義・得意らが田殿庄に指図する。(女房中納言殿の便書)遂に見ずに来るとのこと。
十日
夜より雨降る 明け方に止み、朝陽、しばらくして晴れる。昼はやはり曇る。
明け方に雨を凌いで出発。
程なく王子がいらっしゃる。ただし道が遠いので、道端の樹に向って拝するとのこと〔クメザキとのこと〕。次に井関王子に参る。ここで雨がようやく休む。夜また雨。
次にツノセ王子に参り、次にシヽノセ山をよじ登る。険しい山道、巌石は昨日と異ならない。この山を越えて沓カケ王子に参る。シヽノセ椎原を過ぎる。樹が茂り暗く、道は甚だ狹い。この辺りで昼食御所があるとのこと。また予も同じく昼食の準備をした。
しばらく山中で休息して少し食事。ここで身分の上下なく木の枝を伐り、分に随って槌を作り、榊の枝に付けて、内ノハタ王子に持参し〔ツチ金剛童子とのこと〕、各々これを結び付けるとのこと。
次に此木原に出て、また野を過ぎる。萩や薄が遙かに靡き、眺望ははなはだ幽である。この辺りは高家とのこと。聖護院宮ならびに民部郷の所領とのこと。此所共に便りの事あり。ただしまだ尋ねることができない。
次にまた王子に参る〔田藤次(※善童子王子)とのこと〕。次に愛徳山王子、次にクハマ王子、次に小松原御宿に寄る。御所の辺りの宿に向かったところ、すでになく、国の役人がとりはからって宿を献ずる。
仮屋が少ないので、無縁の者は入らない。
縁のある者で小宅を占め、簡札を立っているところに、内府(※内大臣。源通親)の家人が押入って宿した。出ずべ可ざる之由念怒すとのこと。
国の役人はまた、自分の振る舞いではなく、後で聞いたとのこと。
ただ人の身分によって不公平になるのか。
互いに論じ合っても仕方ない。またその宅に身を入れることはできないのだから。
この御所は水練の便宜があって深淵に臨んで御所を構えてある。
すぐに過ぎ、遙かに宿所を尋ね、川を渡り、イハウチ王子に参る。この辺りの小家に入る。重輔庄とのこと。
宮・戸部両人の便りの書は形の如く到来する。
覚了房阿闍梨が御山より下向し、今日この宿で待って、更に伴って参るとのこと。
代官を以て足るべき由を示したが、猶丁寧の由也。
灯りをともして以後甚しく雨が降る。今夜は甚だ熱い。最も暑い時期と同じだ。帷を着る。南国の気か。蠅が多く、また夏のようだ。
十一日 雨が降る 申(※午後4時ころ)の後いくらか止む 夜に入って月は朧々
明け方に宿所を出る。
御幸を知らずに山を越えて、塩屋王子に参る(この辺りはまた景勝地である。祓がある)。
次に昼宿に入って少し食事する。次にウヘ野王子〔野中のこみちである〕、次にツイの王子、この辺りから歩く。次にイカルカ王子に参る。次に切部王子に参り、宿所に入る〔最も狭小。海人の平屋である〕。御所の前である。ただし国が召し宛てたとのこと。
しばらくして御幸〔歩いて入御〕。
夕方、また歌題があり、すぐにこれを書して持参する。
戌の時(※今の午後8時頃。また、午後7時から9時まで、または午後8時から10時まで)のころに例の如く召し入れられ、読み上げ終わって退出する。
2首はこの上もない品である
羇中聞波 野径月明
うちもねずとまやになみのよるのこゑ
たれをとまつの風ならねども
(訳)寝らずに、苫屋に寄せる波の音を聞く。誰かを待っているというわけではないけれども。
この宿所で、塩コリをかく。
海を眺望する。雨が強くなければ、興のある所である。
病気で不快。寒風が枕を吹く。
十二日 天気晴れ
明け方に御所に参る。出御前に先陣する。
また山を越え、切部中山王子に参り、次に浜に出て磐代王子に参る。
ここは御小養のための御所であったが、入御はなし。
この拝殿の板は毎度御幸の人数を書き記される〔先例とのこと〕。
右中弁(※左中弁の間違いか)が番匠(※ばんじょう。大工)を召して、板を外してカンナをかける。人数を書いて元のように打ち付けさせる。
建仁元年十月十二日
陰陽博士晴光はいまだ参らず
上北面はこの人数中之
中其着無術之由
もって左中弁が申し入れる
可被聴上北面之由被仰下了
御幸4度
御先達権大僧都法印和尚位覚実
御導師権大僧都法印和尚位公胤
内大臣正二位兼行右近衛大将皇太弟傳源朝臣通親
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次々このように殿上人・上北面・僧(覚快己3人)・下北面、みながこれを書く〔この最末にカイ五房隆俊がある〕。
これよりまた先陣して千里浜〔ここは1町ほど〕を過ぎて、千里王子に参り、次に三鍋王子に参る。これより昼養所に入り、食べ終わって御所に参るまでの間に、御幸がすでに出御する。
〔この宿所より忠弘(※藤原忠弘。定家の家人)に命じて師への布施(※熊野詣の師への謝礼)を送り届けた。絹6疋、綿150両、馬3疋〕
〔肝衣便を送るの事〕次にハヤ王子に参る。
御幸入御の間に、先陣して出立王子に参る。
また先陣して田辺御宿を見て〔この浜で御塩コリ、御所で御祓いがあるとのこと〕予の宿所に入る〔宿所は権別当が上よりこれを設けたとか。甚だ広く、切部には似ない〕。御所は美麗にして、河に臨み、深い渕がある〔田辺河とのこと〕。
昨夜、寒風が枕を吹き、咳病が忽ちに発し、心神甚だ苦しむ。
この宿所はまたもって荒々しい。
また塩コリを昨日今日の間に一度しなさいと先達が命じていたので、今日やはりこの事を遂げる。
(てつ)
2009.2.22 UP
2010.10.29 更新
2015.2.18 更新
2020.2.18 更新
参考文献
- 熊野御幸記(読み下し)- ゆーちゃん(歴史好きの百姓のペ-ジ)
- 『本宮町史 文化財篇・古代中世史料篇』