金葉和歌集の熊野関連の歌
『金葉和歌集』は白河上皇の院宣により編纂された第五勅撰和歌集。選者は源俊頼(としより。1055~1129)。
院宣が下されたのは1124年。俊頼は下命後ただちに編纂の仕事に着手したようで、その年の末または翌年の初めに『金葉和歌集』を上奏しましたが、しかし、これは白河院の気に召さず、却下されます。1124年4月に2度めの上奏。これも再び却下され、1126年またはその翌年に3度めの上奏。これがようやく白河院に嘉納されるところとなり、ここに『金葉和歌集』が最終的に成立しました。
1度めに上奏した初度本は完本が現存しないので、実際のところ、わかりませんが、三代集(古今集・後撰集・拾遺集)歌人と当代歌人とが半々くらいで構成されていたものと想像されています。
2度めに上奏した二度本は、当代歌人ばかりで構成された革新的な内容でした。
3度めに上奏してようやく嘉納された三奏本は、後撰集~拾遺集時代の歌人で構成されています。
草稿本(初度本・二度本)と奏覧本(三奏本)とで、ここまで内容ががらりと違う勅撰集は他にありません。
勅撰集は、天皇(あるいは上皇)が奏覧嘉納して初めて勅撰集になります。そのため、『金葉集』も三奏本で初めて勅撰集となったのですが、『金葉集』の場合、嘉納された三奏本がほとんど世に流布せず、2度めに上奏して却下された二度本がもっとも広く世に流布したため、一般に『金葉集』という場合には、二度本系を指しています。
二度本は嘉納されていないので、厳密な意味では勅撰集というわけにはいかないのですが、嘉納されていないものが勅撰集と認められ、逆に、白河院に嘉納されたものが勅撰集とは認められてこなかったという・・・『金葉集』は数奇な運命をたどった勅撰集です。
さて、当代歌人の歌ばかりで編まれた二度本系『金葉和歌集』10巻717首のうち、詞書を含め「熊野」の語が登場する歌は3首。熊野御幸を9度も行った白河院の院宣により編纂された勅撰集ですので、もう少し熊野に関わる歌があると思っていたのですが、少なかったです(もしかしたら見落としがあるのかもしれません。もし他にありましたらご教示ください)。
「熊野」の語を含む歌3首
1.鳥羽上皇の后・美福門院得子の父、藤原長実(ながざね。1075~1133)の歌
院の熊野へまゐらせおはしましたりける時、御迎へまゐりて旅の床の露けかりければよめる
夜もすがら草の枕におく露は故郷こふる涙なりけり
(訳)一晩中、旅寝の枕に置いている露は、故郷を恋しく思って泣いている私の涙であったのだなあ。
(大宰大弐長実 巻第七 恋部上 385)
ここでの院は、白河院のこと。白河院の熊野御幸のおり、院をお迎えするための旅の夜に、都を恋しく思って詠んだ歌。このお迎えは、帰京時の都からの迎えか、それとも熊野に先に着いていての迎えか。どちらとも考えられます。涙を流すほどの恋しがりよう。都ではきっと大切な人が待っているのでしょう。
2.作者不詳
み熊野に駒(こま)のつまづく青つゞら君こそ我がほだしなりけれ
(訳)熊野の道で駒がつまずく青つづらのように、あなたは私のほだしとなって心を縛ることよ。
「ほだし」は馬の足をつなぐ縄。
(巻第八 恋部下 493)
3.行尊の歌
年ひさしく修行し歩きて熊野にて験競(げんくらべ)しけるを、祐家卿参りあひて見けるに、ことのほかに痩せ衰へて姿も賤(あや)しげにやつしたりければ、見忘れて、傍(かたはら)なりける僧に、いかなる人にか、ことのほかに験(しるし)ありげなる人かな、など申(まうし)けるを聞きて
心こそ世をば捨てしかまぼろしの姿も人に忘られにけり
(訳)心はこの世を捨ててしまい、幻のような姿だけがまだこの世に残っているが、その姿も人から忘れられてしまったのだなあ。
(僧正行尊 巻第九 雑部上 587)
この歌の作者・行尊は熊野三山検校であった修験無双の高僧。
行尊が熊野で験比べ(げんくらべ。修験者が神通力を競う行事)をしていたときに少年期に顔見知りであった人物がいたが、その人物が行尊を見て行尊だと気付かなかったときに詠んでその人物に渡した歌。
痩せ衰え、やつれ、変わり果てた姿では、少年の頃の面影なんてがまるでなかったのでしょう。わからなくても仕方ないです。
この歌は茶目っ気があって、いいです。歌を渡したその場面を想像すると、なにか微笑ましくなります。
行尊が熊野三山検校であった時期に、熊野御幸が年中行事化し、熊野信仰が大いに盛んになりました。また、この時期に、参詣ルートも中辺路に固定化、参詣作法も天台修験の流儀が定着。後世、「蟻の熊野詣」といわれるほど多くの人々を集めた熊野参詣の基礎を作ったのが、行尊です。
その他の熊野関連の歌
「熊野」の語を含む歌は以上の3首のみですが、熊野のなかにある地名を探してみると、補遺歌(歌集の精撰過程で切り出されたと思しい歌)ですが、「音無河」が1首ありました。
音無川は、本宮町を流れ、熊野本宮大社旧社地にて熊野川に注ぎます(明治22年の水害で流されるまでは、本宮は熊野川・音無川・岩田川の合流する中州にありました)。
4.源盛清の歌
卯の花をよめる
卯の花を音無河の波かとてねたくも折らで過ぎにけるかな
(訳) 卯の花を音をたてずに流れる音無川の波かと思って、腹立たしいことに折らずに通り過ぎてしまったよ。
(源盛清 補遺歌 671)
卯の花は、その白さから波に喩えられるそうです。
音無川は紀伊の国の歌枕。
かつての本宮大社は、熊野川と音無川に挟まれ、さながら大河に浮かぶ小島のようであったといわれます。熊野川は別名、尼連禅河(にれんぜんが:ガンジス川の支流、ネーランジャナー川。河畔の菩提樹の下で釈迦が悟りを開いたと伝えられる)といい、音無川は別名、密河といい、2つの川の間の中洲は新島ともいったそうです。
流出以前の本宮大社は、およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿が立ち並び、幾棟もの摂末社もあり、楼門がそびえ、神楽殿や能舞台、文庫、宝蔵、社務所、神馬舎などもあり、現在の8倍もの規模を誇っていたそうです。
かつて参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉して熊野本宮の境内に足を踏み入れました。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。
熊野詣は精進潔斎を眼目としていました。
その道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場にあたります。そのため、かつては熊野詣といえば音無川が連想されるほど、名を知られた川でした。
参詣者は、音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づき、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。
音無川は名も知られ、歌によく詠まれてきましたが、「音無し(音がない)」を懸詞として利用するだけの歌も多く、上の歌もそんな歌のひとつです。
勅撰和歌集とは
天皇や上皇の命令によりまとめられた和歌集のことをいいます。
10世紀初めに成立した最初の『古今和歌集』から15世紀前半の『新続古今和歌集』まで21集があります。順に並べると下記の通り。
- 古今和歌集 (醍醐天皇)
- 後撰和歌集 (村上天皇)
- 拾遺和歌集 (花山院)
- 後拾遺和歌集 (白河天皇)
- 金葉和歌集 (白河院)
- 詞花和歌集 (崇徳院)
- 千載和歌集(後白河院)
- 新古今和歌集 (後鳥羽院)
- 新勅撰和歌集(後堀河天皇)
- 続後撰和歌集 (後嵯峨院 )
- 続古今和歌集(後嵯峨院)
- 続拾遺和歌集 (亀山院)
- 新後撰和歌集 (後宇多院)
- 玉葉和歌集(伏見院)
- 続千載和歌集 (後宇多院)
- 続後拾遺和歌集 (後醍醐天皇)
- 風雅和歌集 (花園院)
- 新千載和歌集 (後光厳院)
- 新拾遺和歌集 (後光厳院)
- 新後拾遺和歌集 (後円融院)
- 新続古今和歌集 (後花園天皇)
1~3を三代集、1~8を八代集、9~21を十三代集、全部をまとめて二十一代集といいます。
(てつ)
2002.2.16 UP
2003.4.9 更新
2020.7.26 更新
参考文献
- 新日本古典文学大系9『金葉和歌集 詞花和歌集』 岩波書店
- 神坂次郎 監修『熊野古道を歩く―熊野詣』 講談社カルチャーブック