■ 熊野古道 九十九王子 |
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◆ 熊瀬川王子(くませがわおうじ) 和歌山県田辺市中辺路町道湯川 |
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熊野古道「中辺路(なかへち)」。小広王子と岩神王子の間、小広峠を下って熊瀬川をわたり、草鞋峠へ登る道の傍らに熊瀬川王子はあります。 周囲は人工林に囲まれ、わずかにここだけに雑木が残されています。 建仁元年(1201年)の藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』には、10月14日の記事に「次に中の河、次にイハ神(※岩神王子※)」とあり、熊瀬川王子の名は登場しません。 承元4年(1210年)の藤原頼資の『修明門院熊野御幸記』には、5月1日の記事に「次に檜曽原・継桜・中川など王子を例のごとく御参。次に熊瀬川で昼御養」とあり、地名として熊瀬川が登場しますが、やはり王子としては登場しません。 熊背川王子の名が見出される史料はわずかに仁和寺所蔵の『熊野縁起』1篇のみ。 熊瀬川とはもともと小広峠の山を源流域とする谷川ですが、地名としては草鞋峠の登り口の辺りをだけでなく小広峠付近も含めた一帯を指すので、小広王子と熊瀬川王子は同一の王子である可能性も考えられます。
案内板より。
熊瀬川の集落は明治22年(1889年年)の集中豪雨で壊滅的被害を受け、全戸移住していったそうです。 戦後、ここの木を伐った人が祟りを受けたので小祠が建てられたとのこと。その小祠も今はありません。 熊瀬川王子から岩神王子までには草鞋峠と岩神峠の2つの峠があり(岩神峠に岩神王子がある)、その間の谷はトチノキの多いことから栃ノ河(とちのごう)と呼ばれましたが(藤原宗忠の『中右記』には「都千の谷(とちのたに)」とある)、生い茂った樹木から蛭が降ってくるとして「蛭降谷(ひるふりだに)百八丁」などといわれました。 江戸時代頃から、草鞋峠からの下り坂と岩神峠までの上り坂をそれぞれ女坂(めざか)、男坂(おざか)と呼び、両方を合わせて女夫坂(めおとざか)と呼ぶようになり、間の栃ノ河にあった茶屋は仲人茶屋と名づけられていたそうです。 (てつ) 2009.5.29 UP ◆ 参考文献
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