熊野那智大社から熊野本宮大社へ向かう道
那智から本宮へ向かう「大雲取越え、小雲取越え」は西国三十三所観音巡礼のメインルートです。
那智本宮間は昔の人は1日で歩いたそうですが、今は2日かけて歩くのが一般的です。
1日目=大雲取越(約16km;約5時間45分)
・那智山バス停
↓(10分)
・那智熊野大社
・那智山青岸渡寺
↓(2.5km;1時間10分)
・登立茶屋跡
↓(2.0km;40分)
・舟見峠
↓(3.7km;1時間10分)
・地蔵茶屋
↓(1.9km;45分)
・越前峠
↓(4.9km;1時間35分)
・円座石(わろうだいし)
↓(0.8km;15分)
・小口(こぐち)
小口にて宿泊。
2日目=小雲取越(約17km;約5時間30分)
・小口
↓(1.0km;20分)
・小和瀬(こわぜ)
↓(2.7km;1時間)
・桜茶屋跡
↓(2.3km;1時間)
・石堂茶屋跡
↓(3.3km;50分)
・松畑茶屋跡
↓(3.7km;1時間10分)
・請川(うけがわ)
↓(1時間)
・熊野本宮大社旧社地
↓(0.5km;5分)
・本宮大社前バス停
↓(5分)
・熊野本宮大社
↓(0.5km;5分)
・本宮大社前バス停
請川から熊野本宮大社への約4kmの道のりは国道168号線沿いに歩くことになりますので、バスを利用することもできます。
熊野本宮大社旧社地にお参りするのを忘れないでください。ここがもともと本宮のあった場所です。
なおこの所要時間には休憩時間・見学時間・参拝時間などは含んでおりませんので、その点はご注意ください。
別名、死出の山路
那智から本宮へ向かう「大雲取越え、小雲取越え」は西国三十三所観音巡礼のメインルートです。
西国三十三所観音巡礼が盛んになる以前の中世の文献には唯一、 後鳥羽上皇の4回目の熊野御幸に従った藤原定家が記した『後鳥羽院熊野御幸記』に見られるのみで、中世においては、那智からは新宮へ戻り熊野川を遡行して本宮に戻るというのが通常のルートでした。
那智本宮間は今は、2日かけて歩くのが一般的ですが、昔の人は1日で歩いたそうで、後鳥羽上皇の熊野御幸にお供した藤原定家も那智本宮間を1日で越え、日記『後鳥羽院熊野御幸記』に、
終日嶮岨を超す。心中は夢の如し。いまだかくの如きの事に遇わず。雲トリ紫金峰は手を立つるが如し。
などと記しています。よっぽどしんどかったのでしょう。
「大雲取越え、小雲取越え」は、また「死出の山路」とも呼ばれ、そこを歩いていると、亡くなったはずの肉親や知人に出会うといわれています。疲労困ぱいのなか、幻覚を見るのでしょうか。昔は行き倒れになった人も多かったらしいです。ダルという妖怪に取り憑かれたという話も伝えられています。
紀州が生んだ世界的博物学者南方熊楠(みなかたくまぐす)も雲取を歩いていてダルに取り憑かれたことがあるといいます。
予、明治三十四年冬より2年半ばかり那智山麓におり、雲取をも歩いたが、いわゆるガキ(※ダルのこと)に付かれたことあり。寒き日など行き労れて急に脳貧血を起こすので、精神茫然として足進まず、一度は仰向けに仆れたが、幸いにも背に負うた大きな植物採集胴乱が枕となったので、岩で頭を砕くを免れた。それより後は里人の教えに随い、必ず握り飯と香の物を携え、その萌しある時は少し食うてその防ぎとした。
南方熊楠は、同じ文章中に、菊岡沾涼の『本朝俗諺志』という書物からダルに関する話を引用していますので、それを口語訳して紹介します。
紀伊国熊野に大雲取、小雲取という二つの大山がある。この辺に深い穴が数カ所あり、手頃な石をこの穴に投げ込むと鳴り響いて落ちていく。2、3町(1町は約109m)、行く間、石の転がる音が鳴りつづけているという限りのない穴である。
その穴に餓鬼穴というのがある。ある旅の僧がこの場所で急に飢餓感に襲われ、一歩も足を動かせないほどになった。ちょうどそのとき、里人がやってくるのに出会い、「この辺で食べ物を求められるところはありますか、ことのほか腹が減って疲れています」というと、里人は「途中の茶屋で何か食べなかったのですか」という。
「だんごを飽きるまで食べました」と僧はいう。「ならば道の傍らの穴を覗いただろう」と里人。「いかにも覗きました」と僧がいうと、「だからその穴を覗くと必ず飢えを起こすのです。ここから7町ばかり行くと小さな寺があります。油断したら餓死してしまいます。木の葉を口に含んで行きなさい」と里人。
教えのようにして、かろうじてその寺へ辿り着き、命が助かった、という。
かくのごとく険しい道ですし(とくに大雲取越えがきつい)、歩き始めたら大雲取を越えきって小口に降りるまで(時間にして約5時間35分)人家はありません。小雲取にしても越えきって請川(うけがわ)に出るまで(約4時間)人家がありませんので、「大雲取越え、小雲取越え」を歩く場合は、2人以上で歩かれることをお勧めします。
ところで、小雲取越えは後世に開かれた道で、後鳥羽院の頃にはありませんでした。大雲取を越えたあとにどのようなルートで本宮に向かったのかは、定家の『後鳥羽院熊野御幸記』には「くまなく記すあたわず」とあって、ルートが記されていません。
後鳥羽院が「生得の歌人」(生まれついての歌人)と称賛した西行は熊野詣の折に次のような歌を詠んでいます。
雲取や志古(しこ)の山路はさておきて 小口(をぐち)が原のさびしからぬか
(訳)雲取山の志古の山路がさびしいのはさておいて、小口が原がさびしくないことがあろうか。
小口(おぐち)は、大雲取を越えて下りてきたところにある熊野川町の集落「小口(こぐち)」のことだと思われる。小口が原は、小口辺りの河原のことか。 (『山家集』下 雑 977)
『紀伊続風土記』には「古、那智から本宮に往来するのにここを経るのを本道とした」としたとあり、小雲取越えができる以前は、大雲取山を越えて小口(こぐち)に降り、小口川沿いに日足(ひたり)に降り、熊野川沿いに志古(しこ)まで行き、そこから西に山中に入って谷川沿いに登り、番西峠(現在は万才峠と書く)を越え、大津荷(おおつが)、請川(うけがわ)へというルートを辿るのが本道であったようです。
道しるべがあるので、道に迷うことはないと思いますが、地図を携帯されることをお忘れなく。
(てつ)
2003.6.14 更新
2003.6.19 更新
2003.6.24 更新
2018.6.30 更新
参考文献
- 観光案内所などに置かれている熊野古道のガイドマップ
- 宇江敏勝監修『熊野古道を歩く (歩く旅シリーズ)』山と渓谷社
- 『熊野古道公式完全ガイド―紀州和歌山県版』扶桑社ムック
- 丸山静『熊野考』せりか書房
- 中沢新一責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈第2巻〉南方民俗学』河出文庫 引用箇所は312ページ
- 新潮日本古典集成49『山家集』新潮社
熊野那智大社へ
アクセス:JR新大阪駅または名古屋駅からJR紀勢本線(きのくに線)特急にて紀伊勝浦駅下車、紀伊勝浦駅から熊野交通バス神社お寺前駐車場行きで約30分、終点下車、徒歩約10分で那智山青岸渡寺の鐘楼横の大雲取越登り口へ。
駐車場:有料駐車場あり