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平家物語5 以仁王の挙兵

後白河法皇の第二皇子の挙兵

1 平清盛の熊野詣 2 藤原成親の配流 3 成経・康頼・俊寛の配流 4 平重盛の熊野詣
5 以仁王の挙兵 6 文覚上人の荒行 7 平清盛出生の秘密 8 平忠度の最期
9 平維盛の熊野詣 10 平維盛の入水 11 湛増、壇ノ浦へ 12 土佐房、斬られる
13 平六代の熊野詣 14 平忠房、斬られる

建春門院滋子の舞


 治承3年(1179)、嫡男・重盛を失った平清盛は、関白以下数十人もの高官を追放し、後白河法皇を鳥羽の離宮に軟禁。その翌年には、高倉天皇を20歳の若さで退位させ、徳子(清盛の次女・建礼門院)が生んだ安徳天皇をわずか3歳で即位させました。清盛は天皇の外祖父となり、名実共に絶対的な権力者となったわけです。

 そのころ、後白河法皇の第二皇子、以仁王(もちひとおう。1151~80)がひそかに平家打倒の令旨(りょうじ。皇太子・皇后などの命令を記した文書)を発しました。
 三条高倉に住んだので、高倉宮・三条宮とも称した以仁王は後白河法皇の第二皇子。「王」「王女」とは「親王」「内親王」の宣旨を受けられない皇子、皇女の称号です。母の生家の格が劣るために、親王宣旨を受けられず、異母兄と弟が天皇になるなか(兄は二条天皇、弟は高倉天皇)、以仁王は幼少の頃から30歳に到る今まで皇子としては不遇の暮らしをかこってきました。

 その以仁王に謀叛を勧めたのは、源頼政(みなもとのよりまさ)という齢77歳の老武将。
 摂津源氏の流れをくむ源頼政は、保元の乱で後白河天皇方に付き、平治の乱では清盛方に付き、源氏一門が敗北した後も源氏でただ一人宮廷社会を生き抜きました。和歌の道と武芸に秀で、天皇を悩ます妖怪変化・鵺(ぬえ)を2度退治したことでも名を上げました。
 清盛に推されて異例なことながら75歳という高齢で従三位に昇進。ほどなく出家して源三位入道と呼ばれました。
 普通なら残りわずかの人生をこのまま心静かに読経でもしながら過ごすものだと思いますが、頼政は普通ではありませんでした。最後の最後に源氏の意地を見せてやるということだったのかもしれません。

 もし平家打倒の令旨が下れば、諸国の源氏が喜んで蜂起するとの頼政の言葉に乗った以仁王は挙兵を決意。自ら最勝親王と称して、平家打倒の令旨を諸国の源氏に下すことにしました。令旨は平家方に知られずに極秘のうちに諸国の源氏に伝えられなければなりません。その重要な任務を任されたのが、熊野新宮に隠れ住む故源為義の十郎(十男)である源義盛(よしもり)でした。
 義盛は源為義の末子。源義朝(よしとも)・義賢(よしかた)・義憲(よしのり)・為朝(ためとも)の弟で、頼朝や義経や義仲の叔父ということになります。

 このときの熊野の動きを『平家物語』巻第四の「源氏揃(げんじぞろえ)」から。

『平家物語』巻第四「源氏揃」を一部現代語訳

 まず新宮の十郎義盛をお呼びになって、八条院の蔵人になさる。行家(ゆきいえ)と改名して、令旨の御使いに東国へと下された。

 四月二十八日に都を発って、近江の国から始めて、美濃・尾張の源氏どもに次第に触れて下りながら、五月十日には伊豆の北條の蛭が小島に着いて、流人の前右兵衛佐殿(さきのうひょうえのすけ。源頼朝のこと)に令旨を取り出して奉る。「信太(しだ。常陸国信太、現在の茨城県稲敷郡桜川村)の三郎先生(せんじょう)義憲は兄なので、賜ろう」と言って、信太の浮島へ下る。「木曾冠者義仲は甥なので取らせよう」と言って、中山道へと赴いた。

 そのころ、熊野の別当・湛増は、平家重恩の身であったが、どうにかして聞き出したのだろう、「新宮の十郎義盛が高倉の宮(以仁王)の令旨を賜って、すでに謀叛を起こしたということだ。那智・新宮の者はきっと源氏の味方ををするだろう。湛増は平家の重恩を天のように山のように高く蒙っているので、どうして背き申し上げることができようか。矢をひとつ射かけて、その後に都へ子細を報告申し上げよう」と言って、一千余人が甲冑に身を固め、完全武装して、新宮の港に向かった。

 新宮には鳥井の法眼(第19代熊野別当・行範の子、行全。法眼〔ほうげん]とは僧位のひとつ)、高坊の法眼(行範の子、行全の兄、行快のことか?)、侍には宇井・鈴木・水屋・亀の甲、那智には執行法眼(行範の子、範誉。行快・行全の兄)以下、その勢力都合一千五百余人がときを作り、矢合わせ(開戦の通告のために両陣営が互いに鏑矢を射合うこと)をして、源氏方では「あそこを射れ」、平家方では「ここを射れ」と声がかかり、矢叫びの声(矢が命中したときに射手があげる叫び声)は途絶えることなく、鏑矢の鳴り止む暇もなく、三日ほど戦った。
 覚えの法眼(腕に覚えのある法眼の意か)と言われた湛増であるが、家の子・郎等の多くが討たれ、我が身も傷を受け、危うく命拾いをして、泣く泣く本宮へと撤退していった。

 (現代語訳終了)

源平合戦の戦端を開いた熊野での戦い

 八条院は鳥羽天皇と美福門院得子(びふくもんいん・とくし)の皇女で、後白河法皇の妹。父と母から全国数百ケ所に及ぶ荘園を受け継ぎ、巨万の富を有していました。以仁王を猶子(兄弟の子を養子とすること)としていたことから、以仁王の挙兵に賛同。新宮十郎義盛(行家)を自身の蔵人(近習)とし、全国各地に散らばる荘園への使いを名目として、行家を令旨伝達の使者に立てました。

 しかし、この新宮十郎行家の動きは、ただちに熊野の田辺(現和歌山県田辺市)にいた熊野別当(熊野三山の実際の統括者)の湛増(たんぞう)の知るところとなります。

 田辺にいた熊野別当・湛増は、源為義の娘であり行家の姉である鶴田原(たつたはら)の女房の娘を妻としており、したがって湛増にとって、行家は叔父にあたり頼朝や義経や木曾義仲とは従兄弟という関係なのですが、湛増は平家に心を寄せました。

 湛増の父の第18代熊野別当・湛快(たんかい)が拠点を新宮から田辺に移して以来、熊野別当家は新宮家と田辺家に別れました。
 本家の新宮家が源氏寄りであるのに対して、分家の田辺家の湛増は新宮家に対抗する力を得るためか、妹を平忠度(たいらのただのり。清盛の弟)の妻とするなどして平家に近付きます。

 以仁王が謀叛の動きを見せたとき、湛増はまだ熊野別当ではなく権別当(ごんべっとう。別当の補佐役)であったようで、三山すべてを支配下に治めてはいませんでした。湛増の支配下にあったのは自らの拠点であった田辺と熊野三山のなかで最も田辺に近い本宮です。

 湛増は田辺勢を率い、本宮勢とともに新宮に攻め込みました
 平家方の田辺・本宮対源氏方の新宮・那智の合戦の火ぶたが切って落とされました。
 京に先駆けて、ここ熊野の地で源平合戦の戦端が開かれたのです。

『源平盛衰記』では

 『源平盛衰記』では、本宮の大江法眼が3000余の兵を率いて新宮を攻めこんだとします。上記の『平家物語』「源氏揃」現代語訳では、原文の「覚えの法眼湛増」を 、湛増も僧位が法眼の時期があっただろうし、その時期に「覚えの法眼」の異名があったのかもと、「覚えの法眼(腕に覚えのある法眼の意か)」と言われた湛増」と訳しましたが、覚えの法眼は大江法眼のことかもしれず、『平家物語』では大江法眼と湛増を混同しているのかもしれません。

熊野からの通報により以仁王の挙兵は失敗

 熊野から離れて都に目を向けると、平家方は湛増が遣わした飛脚からの報告により以仁王の謀叛のことを知らされました(『源平盛衰記』では大江法眼の甥で和泉国の住人、佐野法橋という者が通報したとする)。

 清盛は激怒し、以仁王捕縛の手勢を高倉の御所に差し向けました。捕縛の手勢の一人に頼政の子・兼綱を入れるほどでしたので、平家方は謀叛の企みはまったく察知していなかったようです。兼綱からこのことを知らされた頼政は以仁王に急ぎ知らせ、以仁王を高倉の御所から脱出させました。

 以仁王は三井寺(園城寺のこと。滋賀県大津市園城寺町)に入り、その後、頼政も手勢を連れて合流。しかし、延暦寺を味方にすることに失敗し、南都(藤原氏の氏寺、興福寺。奈良県奈良市登大路町)を頼って、三井寺を出て奈良に向かうことにします。しかし、その途中に平家軍に追い付かれ、宇治川をはさんで合戦となりました。
 頼政軍一千余騎に対し、平家軍二万八千余騎。必死に食い下がり激戦となったものの、多勢に無勢。頼政は重傷を追い、自害して果て、以仁王は落ち延び、南都をめざしましたが、途中、脇腹を射られて落馬したところを首を斬られ、30年の生涯を閉じました。

 以仁王に味方した三井寺は討伐され、寺の諸堂、今熊野の御宝殿も焼かれ、一切経や仏像も焼かれ、さらに大津の多くの民家も焼かれました。
 「このような天下の乱れ、国土の騒ぎはただ事とは思われない。平家の世も末になった前兆だろう」と人々は囁きあったといいます。

 以仁王の挙兵は、その企てを事前に湛増に悟られたため、失敗に終わりましたが、その平家打倒の令旨は生き続け、平家打倒の気運も高まり、諸国の源氏の蜂起を促したのです。

 

 

(てつ)

2003.1.15 UP
2019.10.27 更新

参考文献

熊野の梛(ナギ)の葉