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南方熊楠と熊野

熊野歴史研究会さまの研修講演会のために用意した原稿

熊野歴史研究会研修講演会

2017年5月20日(土)、熊野歴史研究会さまの研修講演会でお話させていただきました。

以下の文章は、このときのために準備した原稿です。

 ※ ※ ※ ※ ※

(前略)

これは、私がプロデュースして作った南方熊楠顕彰館オリジナルの熊楠Tシャツです。熊楠が書いた図や文字を使ってデザインしました。今はもう完売して販売していないTシャツですが、ここに熊楠の英語のサインを入れています。

熊楠は明治になる前年の慶応3年4月15日に和歌山市で生まれました。西暦でいうと1867年5月18日、一昨日です。一昨日が熊楠の150回目の誕生日でした。ですので、熊楠は江戸時代生まれの人なんですけれども、アメリカやイギリスなどで20歳の頃から13年間生活していたので、熊楠の学問の中心は、英語での論文発表でした。熊楠が投稿したのは主に、イギリスの科学雑誌『ネイチャー』や、やはりイギリスの学術雑誌『ノーツアンドクエリーズ』です。

『ネイチャー』は現在、世界で最も権威のある科学雑誌ですけれども、その『ネイチャー』に世界で最も多く論文が掲載された研究者が南方熊楠だと考えられます。熊楠の『ネイチャー』掲載論文数は51篇。これは一研究者の単独名の論文掲載数としては歴代最多だといわれています。研究者がたくさんいて調べ切れていないから断言できないのだと思いますけれども、歴代最多だろうと。日本人最多とかのレベルではなく、世界最多です。それから『ノーツアンドクエリーズ』には324篇もの論文が掲載されています。歴代最多ではありませんが、これもものすごい数です。

『ネイチャー』や『ノーツアンドクエリーズ』に掲載された熊楠の論文の署名には"KUMAGUSU MINAKATA"と書いた、その後に"Tanabe, Kii, Japan"と書かれています。那智に住んでいたときのものには"KUMAGUSU MINAKATA Mount Nachi, Kii, Japan"と書かれています。熊楠にとって、自分が暮らしている熊野という地域が大きな意味を持っていました。

熊楠は田辺や那智を含む熊野という地域に愛と誇りを感じていました。だから、和歌山市で生まれ育ち、それからアメリカやイギリスで学んだ熊楠が、30代半ばに勝浦移住して、それからずっと、74歳で亡くなるまで熊野で暮らし続けました。

そもそも熊楠はその名前からして、熊野と深いなつながりを持っていました。

熊楠の名は熊野九十九王子社のひとつであった海南市にある藤白神社の神主から授かったものです。

南方家には当時、藤白神社の神主から子供の名前の1文字を授けてもらうという習わしがあって、熊野の「熊」、藤白の「藤」、そして藤白神社に神様として祀られている楠にちなんだ「楠」などのうちから1文字が授けられました。
熊楠の場合は特別に「熊」と「楠」の2文字を授けられました。熊楠という名前の意味するところは熊野の楠です。

熊楠はその名の通り、いったん海外には出ましたけれども、熊野の楠、あるいは楠に象徴される熊野の森というものと、深くつながりのある人生を送りました。

熊楠は日本の変形菌研究の先駆者として知られています。変形菌というのは、普段はアメーバーのような姿をしていて、動いてバクテリアなどを食べる動物なのですが、あるとき小さなキノコのような形になって胞子を飛ばして繁殖する。動物とキノコの間を行き来するような面白い、小さな生き物です。

いま日本には500種類ほどの変形菌がいますけれども、熊楠が変形菌研究を始める以前は国内には18種類しか見つかっていなかった。それを、熊楠が採集を始めて、それから変形菌研究の弟子、協力者を育てて、熊楠が60代の頃には230種類にまで熊楠と弟子たちが増やしました。

変形菌の研究者で有名なのは他に昭和天皇がいますけれども、昭和天皇は、変形菌研究の大先輩である熊楠に会いたがって、田辺に来たときに熊楠から講義を受けることを自ら望んで実現させました。熊楠は天皇が会いたがるほどにすごい変形菌研究の先駆者でした。

戦前の日本の変形菌の新種の発見というのは、熊楠と昭和天皇がともに5種で、日本一です。新種にはなならなかったけれども変種と認められたのが、熊楠と昭和天皇がともに3種で。これも日本一。熊楠と昭和天皇が戦前の変形菌採集のツートップでした。

南方の名がついた変形菌がありますが、それは田辺の熊楠の自宅の庭の柿の木から採集したものです。学名がミナカテラ・ロンギフィア、和名はミナカタホコリといいます。

熊楠が多くの種類の変形菌を採集できたのは、身近な所に豊かな森が残されていたからです。熊楠は移住した当初、熊野のことをアフリカのズールー、ギニア辺りより野蛮な土地だと思ったと述べていて、だからこそ、多様な生物が棲息する森が熊野には残されていました。

熊楠は変形菌だけでなく、当時、隠花植物と言われていた花のない植物、藻やコケやシダ、地衣、キノコなども研究もしていました。

南方の名がついたコケもあります。学名は読み方がわからないのですが、Buxbaumia minakatae S.Okamura。熊楠が採集して、日本のコケ植物研究の先駆者である岡村周諦(おかむらしゅうてい)という人に新種として報告してもらったものです。和名はクマノチョウジゴケといいます。これも私がプロデュースした熊楠Tシャツですけれども、この真ん中の小さいのがクマノチョウジゴケです。熊楠が採集し、南方の名が付き、また熊野を冠する植物ですが、残念ながら、現在、熊野では採集記録が得られていないということです。

熊楠邸に残されていた隠花植物の標本は、平成元年(1989年)に国立科学博物館に寄贈されましたけれども、その標本の数は2万点を越えます。菌類が約7600点、変形菌類が約6600点、淡水産の藻類が約5000点、コケ類が約1570点、地衣類が約700点。それらの隠花植物の多くは熊野各地の神社の森で採集されたものです。熊野各地の神社の森が熊楠の生物研究の土台でした。

それから熊楠は生物の研究だけをしていたのではなく、人間の文化についても研究しました。熊楠は、柳田国男と共に日本の民俗学という学問を生み出した民俗学者でもありました。柳田国男は熊楠のことを「日本民俗学最大の恩人」と述べています。熊楠は身近な人たちから話を聞いて記録するという作業を行っていました。身近な人たちから聞いた熊野各地の生活文化や伝承文化などの採集が熊楠の民俗学の基礎となりました。

熊楠は熊野のことを、日本国内のうちにありながら熊野者といえば人間でないように申した僻地であるとも述べていて、熊野には自然だけでなく、和歌山や東京とはまるで異なる文化があって、それが学問上とても貴重でした。

身近な人たちから聞き書きした民間伝承などをまとめた民俗学資料を、熊楠は「紀州俗伝」と題して発表しています。インターネット上で口語訳を公開しているので、興味のある方は読んでみてください。「紀州俗伝」で検索したら、私のページが上位に表示されます。

熊楠の学問は、生物学にしろ民俗学にしろ、この熊野という土地に根ざしていました。熊楠の学問は、多様な生物が棲息し、また伝統的な生活文化が残された熊野に熊楠が暮らしたからこそできたものです。熊楠がイギリスに住み続けていたとしたら、あるいは東京で暮らしていたとしたら、熊楠の学問はまた別の形になっていました。

熊楠の学問の基礎は和漢の書物や、大英博物館などで学んだ欧米の学問にありますが、熊野という土地に根付いたことで熊楠の学問が大きく育ちました。

ですので、熊楠をより深く知るには、熊楠が愛し、根付いた熊野という土地を知る必要がありますし、逆に熊楠の著作を読むことで熊野をより深く知ることができます。

熊楠の著作のなかでもとくに熊野に住む人に読んでいただきたいのが、「神社合祀に関する意見」というのと、「南方二書」という2つの文章です。どちらも河出文庫の南方熊楠コレクションの第5巻『森の思想』に収録されていますので、入手しやすいです。今から百年ほど前、明治末期の熊野でどれほどひどいことが行われたのか、どれだけ虐げられたのか、というのがわかる文章です。こちらもインターネット上で口語訳を公開しているのでそちらを読んでいただくこともできます。「神社合祀に関する意見」「南方二書」で検索してください。

熊楠は学問だけでなく社会的な運動も行いました。神社合祀反対運動というものです。その神社合祀反対運動の最中に書かれたのがこの2つの文章です。

明治の末期、日露戦争の後、明治政府は、神社を整理統合して1町村に1社だけにしなさいという神社合祀政策を進めました。合わせて祀る。神社の統廃合です。つぶされた神社の森は伐られました。熊楠の隠花植物採集場所である森がどんどん破壊されていくなか、熊楠は神社の森を守るために立ち上がりました。

熊楠は神社合祀反対運動の中でエコロジーという言葉を使いました。ドイツ語読みでエコロギーと書いてありますけれども。エコロジーを日本に初めて紹介した人はまた別の人(東京帝国大学教授の三好学)ですが、エコロジーという言葉を使って自然保護運動を行ったのは熊楠が日本で最初です。

熊楠の頃のエコロジーというのは生態学。生物と生物が相互に影響を与えあう、生物と周りの環境とが相互に影響を与えあう、その関係を研究する学問です。

いまエコロジーといえば生態学のことだけでなく、その生態学的な知識を反映させた、生物多様性とか環境とかに配慮した文化的・社会的・経済的な活動のこともエコロジーといいますけれども、熊楠が神社合祀反対運動を行った1910年代の頃はエコロジーの黎明期であり、エコロジーという言葉には学問としての意味しかありませんでした。

熊楠が使ったエコロジーという言葉には学問としての意味しかないのですけれども、でも、熊楠が行った神社合祀反対運動は、活動としてのエコロジーの先駈けです。

熊野各地で行われた神社合祀がどれほど凄まじかったのか、みなさんご存知だと思いますが、いちおうお話させていただきます。
これは文化庁が公表している『宗教年鑑』の平成28年版(PDF)から持ってきた都道府県別の神社数です。現在、最も神社の数が多い都道府県はどこかというと、新潟県で、4749社。2番目に多いのが兵庫県で、3865社。

逆に、最も神社が少ない県はどこかというと、沖縄県で14社。沖縄は明治より前は別の国だったので当然神社は少ないです。
2番目に神社が少ない県が和歌山県で、444社。新潟の10分の1以下です。お隣の三重県は神社数が852社で38位で下から10番目。47都道府県中10番目に神社が少ない県です。

熊野地方を含む和歌山県と三重県ではもともと神社の数が少なかったのかというと、そんなことはありません。
和歌山県の統計書で神社の数を調べてみると、神社合祀政策が進められる前年、日露戦争が終戦した明治38年(1905年)には、和歌山県には5836社の神社がありました。今の新潟以上の数の神社がありました。それが明治39年から神社合祀政策が始まって、それから7年後の大正2年(1913年)には442社にまで減らされて、今の和歌山県の神社数と同じくらいになりました。和歌山県では7年間でおよそ92%の神社が潰されました。お隣の三重県では、10413社あった神社が7年後には1165社にまで減らされました。三重県では7年間でおよそ89%の神社が潰されました。

この時期、全国では約20万社あった神社の13万社ほどに減ったということなので、全国ではおよそ35%の神社が潰されたということなのですけれども、和歌山県と三重県ではおよそ90%の神社が潰されました。

神社合祀の実施は各都道府県の知事に任されたので、都道府県により合祀を激しく行ったところとあまり行わなかったところがありました。
新潟県は神社合祀に消極的で、そのために現在、最も神社が多い県となっているのだと思います。それに対して熊野地方を含む和歌山県と三重県では激しい合祀が行われました。熊野と伊勢のある和歌山と三重で、なぜこれほどまでに神社が潰されなければならないのかと熊楠は憤っています。

明治政府は以前のものとは異なる新たな神道を国民に普及させようとしていました。新たな神道は国家のためのものなので神社に対しては国や地方自治体から金銭的な援助を行うということになりました。しかしながら日露戦争により莫大な借金を抱えてしまった明治政府は財政支出削減をしなければならなくなって、財政的に負担できるまでに神社の数を減らすことを目的として神社合祀を行いました。

私の住む本宮町の三里地区というところは明治時代には三里村というひとつの村で、村内に14の神社がありました。それが神社合祀により1社にまとめられました。三里村といっても江戸時代には三里郷と呼ばれていて、郷内には11の村がありました。ですのでそれなりに面積も広いのですが、その広い面積に神社を1社だけにするという、無茶苦茶な神社合祀が行われました。本宮町全体でいうと、本宮町は明治時代にはだいたい4つの村に分かれていました。4つの村で60社ほどの神社があってそれが神社合祀で4社になりました。1村に1社、神社合祀の基本政策の通りになりました。

熊野古道「中辺路」沿いでもひどい神社合祀が行われました。熊野古道は今でこそ世界遺産としてその価値を広く世界に認められましたが、明治時代にはその価値がまったく認められていませんでした。熊野の入口である田辺から熊野本宮まで熊野古道沿いに二十数社の王子社がありましたけれども、そのうちで神社合祀で潰されなかったのはわずかに2社だけです。八上王子滝尻王子、これだけ。他はすべて潰されて森が伐られました。熊野古道沿いにある王子社は歴史的にとても価値のあるものでしたが、熊野ではそのほとんどすべてが破壊されました。

新宮の町では、十数社の神社が神社合祀により熊野速玉大社の境内にある新宮神社1社にまとめられました。今神倉神社とか矢倉神社とか、もし十数社の神社が新宮の町に残されてたらどんなに魅力的な町だったろうかと、残念に思います。「当時新宮第一の学者」と熊楠も高く評価した小野芳彦も、渡御前社や今神倉神社、矢倉神社などの合祀には腹を立てています。

そうした凄まじい神社の破壊が進んでいた最中に、熊楠は立ち上がりました。
名は体を表すと言いますが、熊楠はまさに、熊野の楠、楠に象徴される熊野地方の神社の森を守るために戦いました。

ですが、和歌山県と三重県でおよそ90%の神社が潰されたので、熊楠が守ることができた神社の森はほんとうにごくわずかです。
まずは一番有名なのは田辺湾に浮ぶ神島。熊楠が守り、熊楠が昭和天皇に拝謁するときの舞台となって、後に国の天然記念物になりました。

熊楠が守ったという言い方をしていますが、もちろん熊楠1人の力だけで守れたわけではありません。これは普段は上陸禁止の神島にある、熊楠たちが建てた昭和天皇の行幸を記念した碑ですが、その表には「一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめでましゝ森ぞ」という熊楠の歌が刻まれていて、その裏面には「新庄村及び南方研究所」と刻まれています。

熊楠が孤軍奮闘した、熊楠が1人で戦ったというふうに勘違いしている方もいらっしゃるようなのですが、神社を守ったのは氏子たち自身です。熊楠自身にものすごい政治力や権力があったわけでは全然ないので。実際に守れたところというのは、氏子たちの神社合祀反対の戦いを熊楠が猛烈に応援したという形です。

去年世界遺産に追加登録された闘雞神社の森も熊楠が守りました。闘雞神社はさすがに潰されはしませんでしたが、森の一部が伐採され、熊楠の抗議によりそれ以上の伐採を食い止めました。

熊楠がよく隠花植物の採集に訪れた伊作田稲荷神社も、大きな神社なのでさすがに潰されはしませんでしたが、森の一部が伐採され、熊楠の抗議によりそれ以上の伐採を食い止めました。今は国の名勝です。

熊楠が田辺湾の中で一番の絶景と称賛した礒間の日吉神社と御子浜(みこのはま)の神楽神社も熊楠が守りました。

和歌山県の天然記念物の第1号になった上富田町の田中神社は、神社としては潰されてしまいましたが、森だけは守っておけという熊楠の助言にしたがって住民たちが森を守ったところです。田中神社の近くにある、去年世界遺産になった八上神社もどうにか守ることができました。

それから、中辺路町の滝尻王子。ここから熊野の神域が始まる、極楽浄土の第一段階に入るのだとされた特別重要な王子社ですので、さすがに潰されることはなかったのですが、その代わり別の場所に移転させようという計画が立ち上がりました。それを熊楠が阻止しました。滝尻王子が今の場所にあるのも熊楠のおかげです

継桜王子の野中の一方杉も熊楠が守りました。継桜王子の森は「熊野植物の精華を萃めたもの」と熊楠が絶賛するくらいすごい森でした。残念ながら神社は潰されてしまって森は伐採されてしまいましたが、どうにかこうにか参道沿いにある一方杉(という8本の大杉)だけは守ることができました。

現在、紀伊半島で最も太いとされる木も熊楠が守りました。三重県御浜町の引作神社の大楠は幹周り15.7m。三重県、和歌山県、奈良県を含めて最も太い木です。推定樹齢は1500年。これも神社は潰されて森は伐られてしまいましたが、この大楠だけはどうにか守ることができました。今は三重県の天然記念物です。

それから飛瀧神社、那智の滝の水源林も熊楠が守りました。いま那智の滝の水源域は正確な数字はわかりませんが、たぶん80%以上杉桧の人工林ですが、熊楠の頃はカシを主とする森でした。那智の滝の水源林が伐採されそうになったとき、伐採されれば那智の滝の水源は涸れ尽くすだろうと警告して伐採を食い止めました。そのときせっかく熊楠が守ることができたのに、そのあと、戦後に伐採されてしまったというのは本当に残念なことでした。

あとは神社ではありませんが、奇絶峡で水力発電所を作るときに、景勝地なので景観に配慮して工事を進めるよう訴えたりとかもしています。

それから、もう熊楠が60代になってからのことですが、三輪崎の孔島・鈴島の保護を応援したりとかもしています。

熊楠の自然保護運動というのは神社の森を丸ごと守るというものでした。当時は天然記念物についての法律が準備されつつあった時期ですけれども(史蹟名勝天然紀念物保存法は大正8年公布)、日本の天然記念物の考え方というのは、たとえば大きな1本の木とか、珍しい動物とか、そういう特定の個体、特定の生物の種を保護するという、そういうものでした。

熊楠の場合は大きな木だけを守ればいいというのではなく、その下に生える小さな木とか草やその他の目につかない小さな生き物とか、すべてを含めて丸ごと守る。特定の個体、特定の種だけを守るのではなく森全体を守るというのが熊楠の自然保護の考え方でした。

熊楠は森の中で特に腐葉土の重要性を訴えています。神社の森を掃除するなと言っています。掃除すると腐葉土がなくなって木が枯れてしまう、と。腐葉土がなくなると、植物の根っこと共生して植物にリン酸や窒素を供給する菌根菌、という菌類が死滅して植物は養分を吸収できなくなる、そうすると植物は枯れる。そのように熊楠は言っています。

菌根菌というのは森に生えるキノコの多くがそうなんですけれども、たとえばマツタケなんかがそうです。マツタケは松の根っこと共生して、松に養分を送ります。菌根菌という小さな生き物が大きな木の命を支えています。

世界に不用な物はないと熊楠は言います。多くの菌類やばいきんというのは、人がせっかく作った物を腐らせる、やっかいなものだけれども、もし菌類やばいきんが全くなかったとしたら物がまったく腐らず、世界は死んだ物でふさがってしまって、どうにもこうにもならなくなる。そのように言っています。

大きなものも、小さなものも、やっかいなものも、多様なものを多様なままに守ろうというのが熊楠の自然保護です。

これは那智のクラガリ谷のことを記した文章です。
たとえば、岩窪30cm四方ばかりのうちに落葉が落ち重なっているところに、ルリシャクシャクジョウ、ヒナノシャクジョウ、オウトウクワとホンゴウソウ、またマメザヤタケの一種と思われるキノコが混生する所がある。この1文にものすごいことが書かれています。

ルリシャクシャクジョウ、ヒナノシャクジョウ、オウトウクワは今はキヨスミウツボと言います。それとホンゴウソウ。この4種はみな光合成しない、葉緑体のない植物です。
オウトウクワ(キヨスミウツボ)はアジサイやマタタビなどに寄生する植物寄生植物で、
ルリシャクシャクジョウ、ヒナノシャクジョウ、ホンゴウソウの3種は菌類から養分をもらって生活する菌寄生植物です。
滅多に遭遇できないこれらの植物が30cm四方のなかに生えているという熊野の森の豊かさがこの1文で示されています。

大きな木ももちろん大切ですが、豊かな森には、土の中に極めて多様で豊かな菌根菌の菌糸のネットワークがあります。土壌中に多様な微生物の世界があります。土壌中の生物多様性が、地上の生物多様性をもたらします。植物の中には葉緑体のない、光合成をしない植物もいます。無葉緑植物は他の植物に寄生するものもいれば、土のなかの菌根菌に寄生するものもいます。熊野の森の豊かさの象徴として、熊楠はとくに菌寄生植物を挙げています。

熊楠は100年も前から目につかない土のなかの菌根菌の豊かさこそ大切なのだということを訴えていました。これも驚くべき熊楠の先見性です。

熊楠は日本における自然保護運動の先駆者ではあるんですけれども、守ったのが神社の森ということで、その後の日本の自然保護運動や世界の自然保護運動とは少し違う部分もあります。

熊楠がロンドンにいたときに神道について英語で書いた論文があります。「The Taboo-System in Japan(日本におけるタブー体系)」というもので、そのなかで熊楠は、日本古来の宗教である神道は、「日本人の国民性の基礎」であり、「清廉さの第一の要因」であり、「美徳を生み出す唯一の源泉」であり、「文明の高さの直接の起源」であると述べています。

「神社や森、川、山々、岩屋などを心のよりどころとする」そういう信仰が日本人の精神性や文化の中心にあるのだとロンドンにいる熊楠は考えました。

ところがロンドンから帰国してみれば、日本では神社合祀なんてことが始まってしまった。熊楠の身近なところでどんどん神社が潰されていきました。熊楠は怒りを覚えました。神社の破壊というのは自然の破壊であるとともに、日本人の精神性や文化の破壊でした。

熊楠が神社合祀反対運動のさなかに書いた「神社合祀に関する意見」という文章の中で、熊楠は神社合祀がもたらした問題点を8つ挙げています。

1つめは、神社合祀は敬神の念を薄くする。神様を敬う気持ちを弱める。神様に会える場所が破壊されてなくなるんですから当然そうなります。

2つめは、神社合祀は民の融和を妨げる。神社合祀は一町村のなかで、残された神社、潰された神社それぞれの氏子の間に対立を生みます。

3つめは、神社合祀は地方を衰微させる。神社はお祭りなどで地域にお金を回して地域経済を潤していました。地域内でお金を回すためのひとつの仕組みが神社のお祭りでした。神社が潰されれば地域内でお金を回すための仕組みが1つ失われます。神社合祀は経済的に地方を衰退させます。

4つめは、神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する。神社の森のなかで得られる清々しさが日本人の精神性をもとなので、神社が破壊されてなくなってしまえば、日本人の精神性や文化も破壊されます。地域独自の風習習俗など、日本国内での文化の多様性も失われます。

5つめは、神社合祀は愛国心を損なう。愛国心のもととなるのが郷土愛です。地域の人たちが心の拠り所としていた神社を破壊しておいて愛国心を持てというのはまるで無理な話です。

6つめは、神社合祀は土地の治安と利益に大きな害がある。神社は人々に慰安を与える場所であり、また火災や津波などの災害時には避難所ともなる場所です。それから神社の森は田畑の害虫を駆除してくれる鳥や獣の住処でもあります。神社が潰されれば地域にとって大きな損害となります。

7つめは、神社合祀は史蹟と古伝を滅却する。神社や神社近辺には遺跡があることが多く、また古い伝承や古い記録も神社を中心に伝えられてきました。ですので神社が潰されればそれらも失われてしまいます。

8つめは、神社合祀は天然風景と天然記念物を亡滅する。神社の森はその土地固有の天然自然の植生を千年あるいは数百年と残してきた貴重な場所です。それは天然記念物として保護すべき大切なものです。神社合祀はその貴重な天然風景、天然記念物を滅ぼしてしまいます。

以上の8つの問題点を熊楠は挙げてますが、その8つのうち直接に自然そのもののことを言っているのは最後の8番目だけです。他はすべて人の心、人の社会のことを言っています。

熊楠の神社合祀反対運動というのは単に自然の保護だけを目的としているのではなく、そこに住む人々の暮らしとか幸せとか地域本来の豊かさとか、そういうものを守るための戦いでもありました。自然の生物多様性を守り、人の文化多様性を守る戦いでした。

この8つの問題点はどれも重要なことですけれども、とくに自然に関わる8つめの「神社合祀は天然風景と天然記念物を亡滅する」ということに関連していうと、熊楠は天然の自然の風景のことを「わが国の曼陀羅」であろう、と述べています。日本の自然の風景は曼陀羅であると。

日本の自然の風景の中に身を置いていると、自ずと邪念が払われ、仏の悟りの境地をなんとなく感じることができる。そう熊楠は言っています。

神社の森には多様な生物が棲息していて、それらが互いに影響を与えあって、ひとつの森を形成します。その森のあり方は仏の悟りの境地を表現する曼陀羅のようで、だから人は森の中に身を置くと、仏の悟りの境地の一端に触れることができるんだ、と言っています。曼陀羅にはたくさんの仏様が描かれています。日本の自然の風景を眺めていて仏の悟りの境地の一端に触れることができるというのは生物の多様性が重要な要素なのだと思います。

森の中の多様な生物に囲まれた空間のなかで日本人は神秘的な感覚をおぼえ、その感覚から日本人の宗教は形成されていったのだと思われます。神社合祀はこの日本人の宗教の土台を破壊してしまいます。

また風景については別のことも言っていて、風景は重要な観光資源になると熊楠は言っています。

熊楠は、田辺の人たちに、
風景は田辺が一番だ。この風景を利用して地域の繁栄を計る工夫をせよ。追々交通が便利になったら必ずこの風景と、そして空気がいちばんの金儲けの種になるんだ、と。この景色と空気で儲ける策を立てよ、と。
そのように田辺の人たちに訴えています。

熊楠が夢見た田辺の未来の姿というのは、地域にある自然や文化的な資産を保全しながら観光資源として活用していく、持続可能な観光地。そういう地域の未来を熊楠は夢見ました。

いま田辺市は「世界に開かれた質の高い持続可能な観光地」というのを目指していますが、それは今から百年ほど前に熊楠が夢見たこの地域の未来です。「世界に開かれた質の高い持続可能な観光地」というのは田辺市だけで実現できることではなく熊野全体で目指すべき未来だと思いますが、地域の資源を守りながら観光資源として活用していく持続可能な観光、サステイナブルツーリズムは、熊楠が100年ほど前に訴えていたことです。

いま熊野古道は世界遺産になり、私が氏子総代を務めている熊野本宮大社にも外国人観光客が訪れてくれていますが、熊野本宮大社は熊楠の当時、社殿の前にはロシア軍から分捕った大砲などが並べてありました。それを見た熊楠は、外国人が本宮を訪れたときに悪感情を抱く元となるであろうと指摘しています。熊楠は今から100年ほど前にすでに、外国人観光客が熊野を訪れたときのことを考えていたんです。

熊楠の文章を読んでいると、今から100年ほど前にこんなことを考えていたのか、その先見の明に驚かされることがたくさんあります。

いま熊野古道はサンティアゴ巡礼道とともに数百キロに及ぶ道としては世界でただ2つの世界遺産ですが、熊楠は今から100年ほど前に、熊野詣でとサンティアゴ巡礼の2つを並べて述べている文章を書いています。去年(2016年)2月から熊野古道とサンティアゴ巡礼道の2つの道を歩いた巡礼者には共通巡礼達成証明書を田辺市で交付していますが、今年3月に2つの道を歩いた巡礼者が500人を達成しました。熊楠は、いずれ熊野古道を外国人が歩くようになることも想定していたのだと思われます。

明治以降、熊野はひどく虐げられて、破壊されてきました。戦後間もなくには、今の高台にある本宮大社でさえ水没するような巨大ダム計画が立てられました。技術的に困難ということで実現しなくて、よかったのですが。かつては日本の宗教の中心地、日本じゅうの人たちが行きたいと憧れた場所であり、日本人の心の拠り所であった熊野も、明治以降の日本にとっては大して価値のない場所ということになっていました。

今では熊野古道は世界遺産になり、再びその価値を認められるようになりましたが、日本じゅうの人たちが憧れた、かつてのレベルまでにはまだまだ全然届いていません。

私は熊野を再び日本じゅうの人たちが憧れる土地にしたいと思っています。熊野を再び憧れの土地にするためには、まず熊野が過去において日本にとって特別な場所であったことを広く知らしめなければなりません。それがいま私がしていることですし、観光関連の事業者の方々もされていることだと思います。

私がなぜ熊野の魅力を情報発信しているのかというと、面白いから、楽しいからですが、それだけではなくて地域の将来に対する危機感があるからです。自分が住んでいる所がすごく好きで、これからもずっと今の所で住んでいきたいと思っています。ですけれども、これから先のことを考えたら不安はあります。私が住んでいる集落の人口って9人です。江戸時代には1つの村だったのでたぶん数百人は暮らしていたと思うんですけれども、今は10人足らずです。

本宮町でいえば私が移住してきたころは人口は5000人以上いました。それが今は3000人いません。
これは『地方消滅』という本から持ってきたものですが、社人研(国立社会保障・人口問題研究所)の人口の予測を見たら恐ろしいです。とくに恐ろしいのが若年女性、20歳から39歳までの、20代30代の女性の減り方です。2040年にはすさみ町では若年女性人口は62人になります。2010年のときと比べて78.5%減少するので、2010年のときと比べて21.5%しか若い女性がいないことになります。

串本町では333人、73.4%減少するので、2010年と比べて26、6%しか若い女性がいないことになります。どこの自治体もだいたい2040年には2010年と比べて人口は半減しますが、とくに若い女性の減りようが凄まじいです。太地町が64人、古座川町では50人、どちらもおよそ70%減少して、2010年と比べて30%くらいしか若い女性がいなくなります。新宮市が1119人、那智勝浦町が526人というのは、まだ少しましですが、それでも60%くらい減少して2010年と比べて40%くらいしか若い女性がいなくなります。

若い女性が暮らせない地域は、子供も生まれず、いずれ人が暮らせない地域になります。私はそれは嫌だと強く思っていまして、その危機感が私の活動のエネルギー源みたいなものの一部になっています。

今は地方創生の時代ですが、地方創生というのは、がんばるところは応援するけれど、滅びるところは滅びてくださいということです。この色の付いたところは消滅の可能性が高い自治体です。このままでは滅びます。ですけれども、私はこの熊野という地域が滅びていいはずがないと思っています。

熊野はかつて日本じゅうの人たちが行きたいと憧れた、日本にとって特別な場所です。知れば知るほど熊野のすごさがわかってきて、ますますこの地域のことが好きになってきます。だから、かつて日本にとって特別な場所であった地域が人が暮らせない場所になっていいはずがないと思いますし、地域をなんとかしたいと強く思います。

地域を活性化しなければ、この予測の通り人口は減少していきます。地域を活性化するのに何が必要かというと、人物金、みんな必要ですけれども、何よりもまず人です。人の心。地域の住民が地域を愛して誇りに思っていること。地域への愛着と誇りです。これなしには何も始まりません。地域活性化の基本というのは外貨を稼いで、稼いだ外貨を繰り返し繰り返し地域内で回すことです。外貨を稼ぐことは地域活性化の前提ですが、外貨を稼ぐだけではダメなんです。地域内で繰り返し繰り返しお金を回すということが必要なんです。

自分が使うお金、自分の事業や生活のことを考えたらわかりますが、何の意識もしなかったら、自分が使うお金のほとんどが地域外に流れて出ていってしまいます。地域活性化というのは地域内消費額を増やすこと。地域内でお金を繰り返し繰り返し回すことです。そのためには、まず地域住民の地域への愛や誇りが必要なんです。それがなかったら地域内で繰り返し繰り返しお金を回すということができないんです。

地域への愛や誇りは、そこに住んでいたら勝手に育っていくものではなく、地域を知ることから生まれます。
私の観光学の先生がスイス在住の山田桂一郎さんという方なんですが、スイスでは教育は国ではなく州がやっていて、それぞれにしっかりとした郷土教育があって、子供たちを自分の地域に愛と誇りを持つように育てるので、若いときにいったん修行で外に出たとしても、修行を終えれば帰ってくるそうです。

地域内で繰り返し繰り返しお金を回すということも徹底して行っています。地域で消費するものは地域で生産する。できるだけ地域で生産されたものを消費するという地消地産も徹底しています。山田桂一郎さんのいらっしゃるツェルマットは電気自動車と馬車の町として知られるリゾート地ですが、ツェルマットでは電気自動車も町の中にある工場で作っています。

地域のことを知るということはとても大切なことです。地域のことを知らないと「自分の所には何もないし」とか言う人になってしまいます。そういうふうに育った子供はいったん地域を出て行ったら、もうなかなか帰ってきません。地域活性化のためには私のような余所者のIターンを受け入れることも大切ですが、それよりももっと地元出身の若者に帰って来てもらう、Uターンしてもらうことが大切です。

だから私はもう熊野ってすごいんだってそういうことばかり言っているんです。何もないはずないんです。こんなにスゴい所、日本じゅう探してもなかなかないです。私の活動はネットでの情報発信が中心ですので全国の人に伝えているんですけれども、でも、熊野の地域内の人とか熊野出身の人にも伝えたいんです。あなたの住んでいる地域って、あなたの故郷ってすごいんですよって。

しかし、熊野が過去において日本にとって特別な場所であったことを広く知らしめるという、それだけのことでは、熊野を再び日本じゅうの人たちの憧れの土地にすることはできません。
それだけでは熊野は過去の遺物です。熊野を再び憧れの土地にするためには、現在、そして未来においても熊野が日本にとって特別な場所になるようにしなければなりません。

生命誌研究者で知られる生物学者(でJT生命誌研究館館長)の中村桂子先生は「紀州が3.11以降の日本再生のリーダーになってください」ということをおっしゃられました。熊野は再生の地、蘇りの地と言われますが、ならば、やはり熊野が日本の再生に大きな役割を果たさなければなりません。熊野ならばそれができるだろうと、多くの方々が熊野に期待してくれています。

熊野が日本再生のリーダーになるための鍵となるのが、明治政府の神社合祀政策に敢然と立ち向かって熊野を守ろうと戦った南方熊楠です。

梅原猛先生が以前、新宮市で講演されたとき「熊野から、自然との共存を根底においた生き方、思想を発信せよ」ということをおっしゃられました。「熊野から、自然との共存を根底においた生き方、思想を発信せよ」というのはまさに100年前に南方熊楠が行ったことです。これをいま熊野に住む人たちがやらなけれなならないと思います。いま熊野に住む人たちが熊楠的な生き方、思想を発信する。

東京オリンピック・パラリンピックが近づいてきていますが、近年のオリンピック・パラリンピックでは様々なもので高いレベルの調達基準が求められます。ロンドンやリオデジャネイロ・オリンピックのレベルの基準でやれば、日本の魚のほとんどがオリンピック・パラリンピックの選手には食べさせられません。水産資源の持続性と海洋環境に配慮した国際基準を満たす漁業が国内にほとんどないからです。日本の野菜や果物や畜産物の多くもオリンピック選手には食べさせられません。残留農薬が多いとか環境への配慮に欠けるとかで国際基準を満たした農産物がわずかしかないからです。日本の木材の多くもオリンピック会場や選手村には使えません。日本の林業の多くがやはり森林資源の持続性や環境への配慮が足りないからです。

農産物でいえば、食品安全や環境への配慮を重視した管理基準に適合していることを保証するGAP(Good Agriculture Practice: 農業生産工程管理)認証。海産物では、海洋環境を守り、水産資源の持続的利用に配慮した海産物であることを保証するMSC(Marine Stewardship Council: 海洋管理協議会)認証。その養殖版であるASC(Aquaculture Stewardship Council:水産養殖管理協議会)認証。木材では、森林資源の持続的利用に配慮した木材であることを保証するFSC(Forest Stewardship Council: 森林管理協議会)認証。これらの世界基準を満たすことが近年のオリンピック・パラリンピックでは求められます。

現時点では、オリンピック・パラリンピックの選手に食べさせられる農産物は国内で生産されるもののうちで1%もありません。国内の海産物でオリンピック・パラリンピックの選手に食べさせられるのは、京都府機船底曳網漁業連合会が獲るズワイガニとアカガレイ、北海道漁業協同組合連合会が獲るホタテガイ。それと宮城県漁業協同組合志津川支所戸倉出張所で養殖するカキ。この4つだけです。

持続可能性と環境への配慮という点で日本の一次産業は世界からかなり遅れています。そうした日本の状況のなか、自然との共存を根底においた熊楠的な事業を、もし熊野に住む人たちができたとしたら素晴らしいことです。

熊楠は、地域に根ざしつつ世界基準の高いレベルのところで勝負してきました。いま熊野に住む人たちも、それぞれのできることで地域に根ざしつつ世界基準の高いところで勝負できたらいいなと思います。うちの魚だったらオリンピック・パラリンピックの選手に食べてもらえるよ、うちの野菜、うちの果物だったら食べてもらえるよ、うちの木材だったらオリンピックの会場に使えるよ、と言える事業者さんたちが熊野からたくさん現われてくれたとしたら、かっこいいなあと思います。

そのような取り組みをされている事業者がほんの少しだけですが、熊野にはいます。

尾鷲市の速水林業さんは2000年に日本ではじめてFSC認証を取得しました。速水林業さんの木材ならオリンピック・パラリンピックに使えます。これも、自然との共存を根底においた、熊楠的な生き方、思想の熊野からの発信です。

2012年にWWF(世界自然保護基金)がマグロ資源の持続可能な利用を求める署名というものを提案しました。いま日本の市場に流通するマグロの多くは巻き網で獲られたものです。幼魚も成魚も関係なく魚群をごっそり一網打尽に穫るのが巻き網漁法です。マグロ資源の持続可能性などは考慮しません。網の底の方で潰れたマグロは商品にならないので漁獲した2割程はその場で廃棄します。

それに対して、マグロを獲りすぎないでください、持続可能な漁業にしてくださいというのが、マグロ資源の持続可能な利用を求める署名です。その署名に日本の企業として唯一賛同したのが那智勝浦町のマグロ加工会社のヤマサ脇口水産さんです。ヤマサ脇口水産さんはMSC認証取得に向けて動いています。これも熊楠的な生き方、思想の発信です。

中村桂子先生に「日本再生のリーダーになってください」と言われましたが、熊野が日本再生のリーダーになるのはどうしたらよいのか。日本や世界が抱える問題に対して自ら率先して問題解決のために動くことです。

2015年9月の国連総会で『持続可能な開発のための2030アジェンダ』という成果文書が採択されました。そのアジェンダ(予定表・行動計画)のなかで持続可能な社会を作るために2030年までに達成すべき具体的な17の目標が掲げられました。

熊野が日本再生のリーダーになるためには、これらの目標を他の地域より早く達成してしまうことです。

17ある目標のうちの目標14が、海の豊かさを守ろう、です。熊野の海の生物多様性は、熊野の宝です。これは熊野が地域の未来のためにやらなければならないことです。

目標15が、陸の豊かさも守ろう。陸上の生物多様性の保護も当然、熊野が持続可能な観光地になるためにはやらなければならないことです。

目標8が、持続可能な経済成長と働きがいのある雇用を促進する。これも熊野が地域として生き残るにはやらなければならないことです。熊野ではやはり観光が経済成長の大きな柱となります。観光は地域にとっては地域外から外貨を獲得する手段です。観光事業者が地域内でお金を回すということをきちんと意識して事業を行なえば、観光は、地域内の様々な産業(旅行業、運輸業、宿泊業、飲食業、農業、漁業など)に経済波及効果を及ぼすことができます。熊野を世界に開かれた質の高い持続可能な観光地にすることで、持続可能な経済成長と働きがいのある雇用を促進することができます。

目標5が、ジェンダー平等を実現しよう。若い女性が住めない地域は滅びます。若い女性が暮らしやすい地域にすることが地域活性化には欠かせません。2015年の数字で、日本の国会の女性議員割合は11.60%で、世界ランキングの順位は189ヶ国中147位。そんな日本の男女が不平等な状況のなかで、たとえば熊野の、市議会や町議会、村議会の女性議員の割合が50%くらいあったらカッコいいです。市町村の議会の女性議員の数を増やすって、やろうと思えばできると思うのです。それぞれの性が40%以上を占めなければならないとか議会で決めてしまえばいい。制度として早く男女平等を実現してしまえばいいと思います。熊野は古くはニシキトベ丹鶴姫など、女性が活躍した地域ですから。

目標16が、平和と公正をすべての人に。これは地域で達成できる目標ではありませんが、この地域は観光を通じて世界平和の構築に貢献することができます。外国人観光客を受け入れることで、世界平和の構築に必要とされるお互いに相手を知るという体験が生み出されます。そもそも観光産業は平和でなければ成り立ちません。平和あってこその観光です。熊野古道は世界遺産ですが、世界遺産はユネスコの事業です。ユネスコの目的は、世界の平和と安全に貢献することです。ユネスコの事業である世界遺産の目的も大きくは世界の平和と安全への貢献です。ジオパークもそうです。ジオパークもユネスコの事業ですので、その大きな目的は世界の平和と安全への貢献です。

他にも目標7のエネルギーをクリーンにとか。これらの世界が課題としているものごとに自ら率先して取り組んでいくことで熊野は日本再生のリーダーになれます。

他の生き物たちや、異なる文化に敬意をもち、環境に配慮した事業を行う人たちがもっともっと熊野で増えてきてくれたらいいなと思います。自分たちの事業の柱には熊楠な生き方、思想があるんだと言える、伝えられる事業者さんたちが農業や漁業、林業、製造業、商業、観光業などでどんどん現われてくれたら、熊野は日本じゅうの人がそこへ行きたい、あるいはそこで仕事をしたい、暮らしたいと憧れられる土地になります。

明治時代は熊野にとってはひどい時代でした。明治初期の神仏分離や明治末期の神社合祀で熊野がこれまで大切にしてきたものが破壊されました。ですが、神社合祀の時代に熊野に熊楠がいたことは、幸運なことでした。熊楠が熊野にある大切なものを守るために書き記した文章が今も残されていて、読むことができます。そのときに熊楠が記した文章には、いま熊野に住む人たちが地域を存続させるために何を為すべきなのかを考えるための重要なヒントが埋め込まれています。

熊楠はけして終わった過去の人物ではありません。今なお私たちの先を行く未来の人です。
熊楠とともに未来を創造しようという人たちがもっともっと現われてくれたらいいなと思います。
私の話は以上です。ありがとうございました。

(てつ)

2017.5.22 UP
2021.5.11 更新

参考文献