田辺ロータリクラブ例会の卓話のために用意した原稿
2013年12月19日(木)に行われた田辺ロータリクラブ例会の卓話のために用意した原稿です。
はじめまして。
「み熊野ねっと」という熊野のことを紹介しているHPを運営しております、大竹哲夫と申します。
本日はこのような場にお招きいただき、ありがとうございます。とても光栄に思います。
本日は、私のことをご存知でない方がほとんどだと思いますので、自己紹介をかねながら、熊野の魅力についてお話しさせていただきたいと思います。
私がしていることは、熊野ってスゴい所なんだ、熊野ってスゴいんだということを情報発信することです。
西は和歌山県田辺市から東は三重県紀北町まで広い意味での熊野地方の紹介を行っています。神話の時代から近現代まで。古典文学から最近の小説やマンガや音楽など。それから北は北海道から南は沖縄までの全国各地の熊野神社の紹介など。さまざまな熊野に関連する物事を情報発信しています。
インターネットでの情報発信が中心ですが、最近はトークイベントなどでお話しさせていただいたり、ごくたまにですが、依頼があればテレビにも出させていただいたりしています。
この前の日曜日には、テレビに出させていただきまして。テレビ和歌山の「私の熊野古道」という番組です。
全6回の放送で私が出たのは3回め。1回めが田辺市熊野ツーリズムビューロ会長の多田さん、2回めが和歌山県の世界遺産センターのセンター長の辻林さん、で、3回めが私です。
今度の日曜日22日に再放送がありますので、お時間がありましたらぜひご覧いただけたら嬉しいです。夕方6時15分から15分の短い番組です。テレビ和歌山「私の熊野古道」です。
私が話せることというのは熊野のことだけです。
熊野のことしか話せないんですが、熊野というのはとても広くて深いので、さまざまなことをお話をすることができます。
東日本大震災の1ヶ月後くらいに東京や神奈川で熊野のことを話させていただいたことがあったのですが、そのときお客様から「癒されました」というような感想をいただきました。東京近郊の方々がお客様でしたので、あんな大震災のあとで、余震も続くし、とてもストレスを感じて生活していて、それで私の話を聞いて、心がほぐれましたとかおっしゃってくださいました。
私は熊野のことしか話していないんです。その熊野の話が人の心を癒すことができる。熊野のスゴさを改めて私自身が確認することができました。
熊野はいろいろとスゴいんですが、まず何がスゴいって、歴史がスゴいです。
平安時代末期に院政という新しい政治の仕組みを作った白河上皇は熊野を9回詣でています。その後の鳥羽上皇は21回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回。往復1ヶ月くらい掛かる熊野詣を1年に1回くらいは行っています。
上皇だけでなく、そのお妃さまも熊野を詣でています。
鳥羽上皇のお妃の待賢門院璋子が12回、美福門院得子が4回、建春門院滋子が4回、修明門院重子が11回。それから貴族や武士も熊野を詣でました。
平清盛も何度か詣でていますし、重盛も維盛も何度か詣でています。清盛の盟友の信西も、西行も。その当時の国を動かす人たち、今で言えば内閣総理大臣や閣僚、官僚のような人たちが何度も何度も熊野を詣でています。
熊野は日本の宗教の中心地だったんです。本当にたくさんの人々が熊野を詣でました。ですので、日本の文化に熊野はさまざまな影響を与えています。
日本の文学を代表するような「平家物語」は熊野信仰を広めるための物語という側面があります。
「平家物語」の冒頭、巻一には「そもそも平家がこれほど繁栄したのは熊野権現の御利益のおかげであると噂された」というようなことが書かれています。平家物語を語った琵琶法師の総本山は熊野本宮近くにあったと伝わります。
それから全国各地にある伝統芸能のようなものにも熊野信仰が関係しているものがいくつもあります。
国の重要無形民俗文化財である愛知県奥三河の花祭は熊野修験が関わっています。青森県下北の能舞もそうですし。これも国の重要無形民俗文化財。
東北地方では獅子舞のことを権現舞といいます。獅子頭に熊野権現を勧請して舞って悪魔払いをしたというのが始まりです。
盆踊りというのは、時宗という鎌倉新仏教が行った踊念仏がその原形だといわれます。時宗の開祖は一遍上人。一遍上人は熊野本宮に籠って熊野権現のお告げを夢で受けて、その結果、時宗という新しい宗派が生ました。ですので、熊野なしに時宗はないし、盆踊りもなかったということです。熊野が精神的なルーツになっている。
時宗に関わりを持つ人たちは阿弥号を名乗った。なになにあみ。観阿弥、世阿弥、能阿弥、相阿弥、音阿弥、善阿弥 、千阿弥など。いま名を挙げた人たちは能や茶道、華道などの芸能などで活躍した人々。それらの日本文化に影響を与えた人々の精神的なルーツが熊野ということになります。
熊野信仰を広めたのは神主ではありません。平安時代には熊野山伏であり、鎌倉室町頃には琵琶法師であったり、時宗のお坊さんであったり、戦国時代には熊野比丘尼という女性宗教者であったり。他の宗教の人たちが熊野信仰を広めてくれた。これも熊野のスゴいところです。
熊野信仰というのは神様と仏様を一体にして祀りました。
熊野権現といいますけれども、権現とは仮に現われたという意味。何が仮に現われたかというと仏が仮に神様の姿で現われた。
異なる宗教を一体のものとするというのは、世界的にはありえないこと。
お寺と神社が隣あってあるというのは、今でも熊野地方では所々で見られる光景ですが、これも世界的に見たらあり得ないスゴいことです。キリスト教の教会とイスラム教の礼拝堂が隣あってあるというのはあり得ません。
熊野古道というのもスゴいです。高野山と熊野本宮を結んでいる。仏教真言密教の聖地と熊野。吉野と熊野。修験道の聖地と熊野。伊勢と熊野。同じ神道とは言ってもまるで違う伊勢と熊野。同じキリスト教の中でもプロテスタントの教会とカトリックの聖地を結ぶ巡礼の道というのもあり得ないです。世界的にはあり得ない奇跡的なことが日本では起こって、それを象徴するような場所が熊野古道。
女性の参詣を早くから積極的に受け入れたというのも熊野のスゴさです。
熊野古道を歩いて、本宮大社まであと1時間ほどの所に伏拝王子という王子社がありますが、そこで和泉式部が生理になって泣く泣く参詣を諦めた。その日の夜の夢に熊野権現が現われてかまわないから来いと。そこで和泉式部は熊野本宮を参詣することができたというお話が伝わります。
これもスゴい話で、昔、日本では法律的に国家的に女性の生理を不浄なものと規定していました。しかし、熊野ではそんなの気にしないと。
似たような話が熊野の霊域の入り口とされた滝尻王子にもあって、身籠っていた女性が熊野詣に来て、急に滝尻王子で産気づいて出産した。で、参詣を諦めたのですが、その日の夜の夢に熊野権現が現われて、赤子を滝尻の岩屋に置いてそのまま参詣を続けなさいと。そのお告げに従って、参詣することができて、滝尻に戻ってくると赤子も無事に育っていたというお話が伝わります。
これも出産を不浄とするという法律なんて熊野は気にしない。法律的には7日間の謹慎なのですが、そんなのかまわないから来いということで、中央とは異なる価値観を持っていることを堂々と示しているというのも熊野のスゴさです。
戦国時代、日本に30年余り滞在した宣教師ルイス・フロイスは紀伊国のことを「四つ五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者もそれを滅ぼすことができなかった」と述べています。高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆。そして、おそらくは熊野。五つの共和国的存在が紀伊国にはありました。
紀州は中央集権的なあり方に真っ向から対立する精神をもった人たちが住まう地域であり、伏拝王子や滝尻王子での伝承も中央集権的なあり方を嫌う熊野ならではのエピソードです。
滝や岩や島や森そのものを御神体とする神社が残されてることも熊野のスゴいところです。
田辺湾に浮かぶ神島はその名の通り神様の島。江戸時代には神島明神森といわれていました。森そのものを神社とする。
私はいま、熊野を世界ジオパークにしようという取り組みに少しだけ協力させていただいているのですが、熊野のジオパークというのはとても魅力的です。ジオパークというのはジオ、大地、土地、地域の地質地形を教育や観光に保全しながら活用していこうという取り組みです。
熊野は岩や滝や島、ジオそのままを御神体として祀っている神社があります。岩が人の心と繫がっている。信仰と繫がっている。これは他の地域のジオパークにはないスゴいことです。
いま和歌山県側で南紀熊野ジオパーク、三重県側で東紀州ジオパークと別々に取り組んでいますが、世界ジオパークにするときには合体させることになると思います。和歌山県側のジオパークに飛び地の北山村があるので、国内のジオパークの場合、飛び地があってもいいのですが、世界ジオパークの場合、飛び地が認められないので、いずれは合体して熊野全体で世界ジオパーク認定を求めていくことになると思います。
自然崇拝的な信仰のあり方が今も残されているというのは本当に貴重なことです。とても魅力的なジオパークになります。
九州のジオパークに関わっている大学の先生に「岩を御神体とする神社って九州にありますか」と聞いたら、知らないと。滝や岩や島や森そのものを御神体とする神社が熊野に残されていることはほんとうにスゴいことです。
それから南方熊楠もスゴい。
熊楠は今から百年ほど前にエコロジーという言葉を使って神社合祀に反対して自然保護運動を行いました。結果としては和歌山県ではおよそ9割方の神社が神社合祀で潰され、和歌山県は全国で2番目の神社の少ない県になったということで、熊楠の自然保護運動は失敗だったかもしれませんが、そのときに熊楠が行ったこと、書き記した文章、わずかながらも守ることができた神社の森は熊野や日本にとってとても貴重な宝物です。
熊楠が人生の後半生を熊野で過ごしてくれたというのはとてもスゴいことです。
熊野ってスゴい、スゴいといいながら、私が何を目標としているのかというと、大きな目標としては日本の未来をよくしたいということです。
日本が動くとき熊野が動く、熊野が動くとき日本が動く、という言葉があります。
日本の歴史が動くとき、その背後で熊野がうごめいている。
闘雞神社の神社名の由来となった、神前での闘鶏による占い。源氏に付けとの占いの結果に従い、第21代熊野別当となる湛増が熊野水軍を出陣させて、平家を壇ノ浦に沈め、平家の世を終わらせ、源氏の世としました。
そもそも源平合戦の初戦は熊野で行われた。後白河法皇の皇子以仁王が平家打倒の命令書が出してから最初に行われた合戦が、平家方の田辺・本宮、対源氏方の新宮・那智の合戦です。
日本の歴史が動くとき熊野が動くんです。熊野が動くとき日本が動くんです。
承久の乱、鎌倉時代末期の熊野水軍による反幕府一斉蜂起、南北朝の動乱。
勝つ側に付くにしろ負ける側に付くにしろ、日本が動くとき熊野が動いています。
東日本大震災が起こり、日本の進むべき方向は変わった。多くの人たちがそれを感じています。だけれども国というのは大きなものなのでそう簡単には変わらない。
動き出したら速いと思いますが。和歌山県で神社の数が10分のⅠになったのはわずか数年の間のことですから。変わるときは一気に変わるでしょうが、動き出すまでに時間がかかる。
東日本大震災復興構想会議の特別顧問(名誉議長)をつとめられた梅原猛先生は「熊野から、自然との共存を根底においた生き方、思想を発信せよ」ということをおっしゃられました。生命誌の研究されている中村桂子先生は「紀州が3.11以降の日本再生のリーダーになってください」ということをおっしゃられました。
私がやりたいのはこれです。
熊野は再生の地、蘇りの地と言われますが、ならば、やはり熊野が日本の再生に大きな役割を果たさなければならないのだと思います。熊野ならば、それができるだろうと思いますし、多くの方も熊野に期待してくれています。
できる能力があるからこそ梅原猛先生にしろ中村桂子先生にしろ、熊野に期待してくれているのです。
日本が再生するには、人々の価値観の転換が必要です。人々の価値観の転換を促す場が熊野だと。熊野が日本の未来をよくしていくきっかけとなる場所になる。そのようにしたいと考えています。
私ひとりができることは本当にちっぽけなことですが、熊野には大きな力があります。
熊野に残る自然崇拝や南方熊楠が守った神社の森とかそういう場所には、人々の心を揺さぶる、人々の心を震わせる力があります。
私にできることは熊野ってスゴいんだと情報発信することだけですが、それがささやかながらも日本の未来をよくしていくことに繫がっていくのだ、と私は信じて活動しています。
(てつ)
2013.12.19 UP
2021.5.12 更新