み熊野ねっと

 熊野の歴史や文化、観光名所、熊野古道の歩き方、おすすめの宿などをご紹介しています。

熊野の魅力について

 

本宮中学校育友会講演会のために準備した原稿

2015年12月18日(金)、本宮中学校育友会さまの主催で田辺市立本宮中学校にて50分ほど話をさせていただきました。

以下の文章は、このときのために準備した原稿を加筆修正したものです。

本宮中学校育友会講演会

こんにちは。
はじめまして。ご紹介いただきました大竹哲夫と申します。本日は50分ほど熊野の魅力についてお話させていただきますので、よろしくお願いいたします。

まず自己紹介させていただきますと、本宮町一本松に住んでます。人口12人ほどの限界集落です。20年ほど前に神奈川県から移住してきまして、今では一本松の自治会長とか三里神社の氏子総代の役員とか、熊野本宮大社の氏子総代とかをさせていただいております。

「み熊野ねっと」という熊野の魅力を情報発信するウェブサイトを運営しております。「み熊野ねっと」では東は三重県紀北町から西は和歌山県田辺市まで広い意味での熊野を紹介しています。

熊野エヴァンジェリストというのを名乗って活動していますが、エヴァンジェリストというのはもともとはキリスト教の伝道師、伝道者のことです。それが今では企業の製品のよさをPRする仕事をする人のこともエヴァンジェリストといいます。私は熊野のよさをPRしているということで、熊野エヴァンジェリストを名乗りました。

熊野エヴァンジェリストという肩書きは数年前から使っているのですが、それ以前からも人前でお話しさせていただくことがあったりして、そうしたときにすごい紹介をされることがあって、たとえば熊野のカリスマとか、熊野の生き字引とか。

そういうことがあったので熊野エヴァンジェリストという肩書きを自ら作って名乗るようになりました。

意味わかりませんけれど、熊野のエヴァンゲリオンとか言ってくれる人もいます。エヴァンゲリオンってわかります? もう20年くらい前のアニメ。知ってる?

エヴァンゲリオンもエヴァンジェリストも、元々の言葉はエウアンゲリオン。よい知らせという意味の言葉です。

私の活動を一言で言えるものがそれまでなかったので、熊野エヴァンジェリストという肩書きは自分で作ったものですが、とても気に入っています。

「み熊野ねっと」の他にも熊野が誇る偉人である南方熊楠を紹介するサイトや、『紀伊続風土記』という江戸時代の紀伊国のガイドブックのような本を現代語訳しているサイトや、熊野比丘尼のサイト第21代熊野別当のサイトなど、複数の熊野関連サイトを運営しています。

何か熊野のことを詳しく調べようと検索したら、かなりのことで私が作っているページが上位に出てくると思います。

インターネット上ではてつと名乗っていますので、み熊野ねっとのてつさんと覚えていただけたら嬉しいです。

インターネット上での情報発信が活動の中心ですが、時々は人前でお話しさせていただいたり、ごくまれにですがテレビに出させていただくこともあります。
原稿で公開できるものは「み熊野ねっと」上で公開していますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

この間の日曜日には和歌山大学の南紀熊野サテライト10周年記念式典というのに呼んでいただき、パネルディスカッションのパネリストとしてお話させていただきました。

テレビは、全国ネットはさすがに滅多にありませんが、もう3年くらい前になりますが、NHKの「あさイチ」という番組に出させていただきました。有働さんとV6のイノッチが司会をされている番組です。

それから熊野ならではの商品作りということもしています。熊野の御神木である梛の木の葉っぱとか、熊野地方のとある地域でしか産出されない特殊な岩石である那智黒石とか、江戸時代紀州藩が門外不出とした特別な技術で作られた木炭である備長炭とか、本宮町で作られる音無紙という和紙とかでアクセサリーなどを作って販売しております。

私の活動は大体こんな感じです。
ウェブサイトにしろ商品作りにしろ、熊野のよさを伝えるということを私はしています。

みなさん熊野や熊野古道のことは学習していると思いますが、改めて私の方から熊野のすごさについてお伝えできたらと思います。

熊野はいろいろとほんとにスゴイんです。これから熊野のスゴいところをいくろいろ挙げていきますが、まず何がスゴイって、歴史がすごいです。

平安時代末期の院政という政治は行なわれていた時代、白河上皇は熊野を9回詣でています。その後の鳥羽上皇は21回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回。往復1ヶ月くらい掛かる熊野詣を1年に1回くらいは行っています。

院政期は平家の時代。平清盛も何度か詣でていますし、子の重盛も、孫の維盛も何度か詣でています。熊野三山造営奉行であったと伝えられる重盛は死の直前にも熊野を詣でて祈りを捧げました。維盛は死に場所に熊野を選びました。

その当時の国を動かす人たち、今で言えば内閣総理大臣や閣僚、官僚のような人たちが毎年毎年、熊野を詣でたのです。熊野とはそういう日本にとって特別な場所でした。

日本の三大聖地といえば「伊勢、熊野、出雲」といわれますが、日本の歴史や文化に与えた影響力の大きさということで考えたら圧倒的に熊野がスゴい。

熊野のことをよく知る人は、熊野のことを、日本の始まり、日本の原郷、日本人の心の故郷、日本の核心、日本の中心などと言ってくれます。熊野は日本にとって特別な場所です。

日本の文学を代表するような『平家物語』は熊野信仰を広めるためのような物語です。

『平家物語』の冒頭、巻Ⅰには「そもそも平家がこれほど繁栄したのは熊野権現の御利益のおかげだと噂された」というようなことが書かれています。その後もちょくちょく熊野が出てきます。

熊野本宮近くにある大智庵というお寺が、琵琶という楽器を奏でて平家物語を語った琵琶法師という芸能者の総本山であったとの伝承もあります。それが事実かどうかはわかりませんが、平家物語と熊野のつながりの強さからそのような伝説が生まれたのだと思います。

日本文化の中心的な位置にあるといわれるのが和歌ですが、三大和歌集とされるのが『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』です。このうちの『新古今和歌集』は、熊野を28度も詣でた後鳥羽上皇の命令で作られた和歌集で、熊野詣をした歌人たちが中心になって編纂作業が行われました。

そのため熊野詣での道中に詠まれた歌などが収録されています。『新古今和歌集』に登場する地名としては「熊野」が最も多く19ヶ所に登場します。
(ちなみに2位は「みちのく」で16ケ所。「みちのく」というのは今の東北地方です。)

熊野が日本の文化に与えた影響はとても大きいです。

国の重要無形民俗文化財である愛知県奥三河の花祭は熊野修験が関わっています。やはり国指定重要無形民俗文化財である青森県東通村の下北の能舞も熊野修験が関わっています。
東北地方では獅子舞のことを権現舞といいますが、獅子頭に熊野権現を勧請して舞って悪魔払いをしたというのが始まりです。

それから盆踊りというのは、時宗という鎌倉時代に起こった新仏教、新しい仏教が行った踊念仏がその原形だといわれます。時宗の開祖は一遍上人。一遍上人は熊野本宮に籠って熊野権現の教えを夢で受けて、その結果、時宗という新しい宗派が作られることになりました。ですので、熊野本宮なしに時宗はないし、盆踊りもなかったということです。熊野が盆踊りの精神的なルーツになっている。

去年、今年と、私も関わって熊野本宮盆踊り大会というのを行ないました。一遍上人が教えを授かった熊野本宮の旧社地で、一遍上人の時宗が始めた踊念仏から生まれた盆踊りを踊るということを行ないました。とても意義のあることができたと思っています。今年は雨で体育館で行ったのですが。

盆踊り大会は、熊野本宮大社の旧社地に建てられた南無阿弥陀仏と刻まれた一遍上人を偲ぶ碑の前で行ないます。神社の境内地に南無阿弥陀仏の碑があるなんて今ではなかなかあり得ないことです。
一遍上人の命日は8月23日。熊野本宮大社では月命日の毎月23日に一遍上人月例祭というのを執り行なっています。神社がお坊さんを偲ぶ祭事をしています。

時宗に関わりを持つ在家の人たちは阿弥号を名乗りました。観阿弥、世阿弥とか、能阿弥、相阿弥、音阿弥、善阿弥 、千阿弥など。いま名を挙げた人たちは室町時代に能や茶道、華道、庭園作りなどの現在にも伝わる日本文化の基礎を作り上げていった人々です。それらの日本文化に大きな影響を与えた人々も時宗という仏教を介して熊野が精神的なルーツになっています。

熊野信仰を全国に広めたのは神主さんではありません。平安時代には熊野山伏であり、鎌倉室町頃には琵琶法師であったり、時宗のお坊さんであったり、戦国時代には熊野比丘尼という女性宗教者であったり。他の宗教の人たちや芸能者が熊野信仰を広めてくれた。これも熊野のスゴいところです。

熊野信仰というのは、神仏習合。(習という字には重なり合うという意味があって、神様と仏様が重なり合って合わさる。)熊野では神様と仏様を一体にして祀りました。本宮の神様は阿弥陀如来ですし、速玉の神様は薬師如来、那智の神様は千手観音。熊野は神仏習合の霊場でした。熊野の神様を熊野権現といいますが、権現とは仮に現われたということ。何が仮に現われたのかというと仏、仏が仮に神様の姿で現われた。

異なる宗教を一体のものをするというのは、世界的にはなかなかありえないこと。

お寺と神社が隣あってあるというのは、今でも日本の所々で見られる光景ですが、これも世界的に見たらスゴイことです。キリスト教の教会とイスラム教の礼拝堂が隣あってあるというのはなかなかあり得ません。

ですので、熊野古道というのもスゴイです。高野山と熊野本宮を結んでいる。仏教真言密教の聖地と熊野。吉野と熊野。修験道の聖地と熊野。伊勢と熊野。同じ神道とは言ってもまるで違う伊勢と熊野。

イスラム教の聖地とキリスト教の聖地を結ぶ巡礼の道なんてあり得ないですし、同じキリスト教の中でもプロテスタントの教会とカトリックの聖地を結ぶ巡礼の道というのもあり得ないです。世界的にはあり得ない奇跡的なことが日本では起こった。その奇跡を体感できるのが熊野古道です。

一遍上人の夢の中に、熊野の神様が現れて、一遍上人に「信不信をえらばず、浄不浄を嫌わず」という教えを授けます。信不信をえらばず。宗教なのに、信じていようがいまいが関係ないといっています。

浄不浄を嫌わず、というのは、当時の情況から考えると、男でも女でもということのようです。熊野では、女性の参詣を早くから積極的に受け入れました。女性の参詣を早くから積極的に受け入れていたことも熊野のすごさです。

伏拝王子に平安時代の女流歌人、和泉式部のお話がありますが、それも時宗が作ったお話のようです。和泉式部が熊野を詣でようと伏拝王子まで来たが、そこで生理になって泣く泣く参詣を諦めた。その日の夜の夢に熊野権現が現われてかまわないから来いと。そこで和泉式部は熊野本宮を参詣することができたというお話が伝わります。

昔、日本では法律的に国家的に女性の生理を不浄なものと規定していました。しかし、熊野ではそんなの気にしないから来いと。
熊野が中央とは異なる価値観を持っていることを堂々と示している、素晴らしいエピソードです。

伏拝王子の和泉式部と似たような話が熊野の霊域の入り口とされた滝尻王子でもあって、身籠っていた女性が熊野詣に来て、急に滝尻王子で産気づいて出産した。で、参詣を諦めたのですが、その日の夜の夢に熊野権現が現われて、赤子を滝尻の岩屋に置いてそのまま参詣を続けなさいと。そのお告げに従って、参詣することができて、滝尻に戻ってくると赤子も無事に育っていたというお話が伝わります。

出産もまた法律的に国家的に不浄なものと規定されていました。法律的には7日間の謹慎なのですが、出産を不浄とするという法律なんて熊野は気にしない。そんなのかまわないから来いということです。

中央と異なる価値観を持っていたことに熊野の価値があったのだろうということだと思います。

熊野は昔から女性が活躍した場所のようで、『日本書紀』という奈良時代に成立した日本の歴史書にはニシキトベという熊野の人物が登場します。トベというのは女の酋長。熊野のとある部族の長を務めた女性のようです。

平安時代ころだと、熊野は巫女が有名でした。熊野の巫女は「いた」と呼ばれましたが、神懸かりして神様の言葉を人に伝えました。

鎌倉時代だと鳥居禅尼という女性が有名です。若い頃は丹鶴姫と呼ばれました。この女性は鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔母さんで、鎌倉将軍家の一族として大きな力を熊野内外に振るったようです。

戦国時代以降は、熊野比丘尼という女性宗教者が熊野信仰を全国に広めました。女性の活躍によって熊野が支えられたというのもすごいことです。

女性たちの活躍もあって、現在、全国に北は北海道から南は沖縄まで熊野の神様をお祀りする神社がおそらく5000社ほどあります。

全国熊野神社参詣記というコーナーでは、全国各地の熊野神社を訪れた方が参詣の記録を私にメールで送ってくださって、それを掲載させてもらっていただいているのですが、現時点で1802社の熊野神社の参詣の記録を掲載しています。千葉県316社、福島県189社、埼玉県176社、東京160社。

日本の各地と熊野は繫がっています。
先月、本宮大社に沖縄の方々が琉球舞踊、沖縄の歌と踊りの奉納にいらっしゃいました。沖縄県には神社本庁に属する神社が11社ありますが、そのうちの8社が熊野の神様をお祭りしています。

東京都庁のすぐ近くには熊野神社があります。東京新宿の総鎮守、新宿の守り神です。そもそも室町時代に、当時原野であった新宿という土地を開いたのは熊野の神官の家系の流れの鈴木九郎という人物です。

宮城県名取市には名取熊野三山と呼ばれる3つの神社があり、それらが東北地方の熊野信仰布教の拠点でした。

日本の各地に熊野神社はあります。それはつまり熊野が日本人の心の拠り所であったということです。熊野は日本の歴史や文化に大きな影響を与えました。

そしてまた他の国の歴史にも熊野は影響を与えたようです。

日本が戦国時代の頃、16世紀のヨーロッパで最も普及していた(ラザロ・ルイスの)世界地図には、紀伊半島は「盗賊島」と書かれています。

盗賊島、海賊の根拠地。熊野は海賊の根拠地としてヨーロッパの船乗りたちに怖れられました。

熊野海賊、熊野水軍の活躍がなければ、日本はヨーロッパのどこかの国の植民地になっていたかもしれません。そうなっていれば世界の歴史が今とは違うものになっていました。

もっと最近のことだと、トルコという国は世界一の親日国、日本に親しみを抱いてくれている国ですが、そのきっかけとなった出来事は熊野、串本の大島で起きました。

いま「海難1890(かいなん いちはちきゅうぜろ)」という映画が公開されています。観ましたか?

この映画はその大島での出来事と、その後の感謝の連鎖を描くものです。

明治23年(1890年)、トルコ軍艦エルトゥールル号が串本の大島近くの海で遭難し、500名以上の犠牲者を出しました。生存者は69名。そのときに生存者の救出と治療、介護を大島の住民たちが献身的に行いました。食糧の蓄えもほとんどないのに、食糧を差し出し、衣服を提供し、介護しました。

大島の人たちはただ目の前に苦しんでいる人がいるから、困っている人がいるから、彼等を助けた。そして、そのことがトルコの人たちが日本を好きになるきっかけとなった。

それからおよそ100年後(95年後)の1985年(昭和60年)、イラン・イラク戦争でイランに取り残されていた日本人を、トルコ航空が救援機を出して救出してくれました。

それは、エルトゥールル号のときの恩を返すためだったといいます。

素晴らしい映画です。まだ観ていない方は、新宮や田辺で上映されていますので、ぜひ観てください。

こういう最近のことも含めて、知れば知るほど、熊野ってスゴいということがわかってくるのですが、そのスゴさをあまり理解していない人も多いのかなと思います。

なぜそうなってしまったのかというと、大きな原因としては明治時代に行なわれたことが熊野に大きなダメージを与えたということがあると思います。

明治時代の初期には神仏分離が行われました。神様と仏様を分けなさいという国の政策です。
熊野という土地は神さまと仏さまを一体のものとして祭る神仏習合で盛り上がった聖地です。

それが神仏習合なんてダメということになった。神さまと仏さまを一体のものとして祭るというのは日本人のなかで自然発生的に生まれて来た信仰のあり方だと思うのですが、その神仏習合によって熊野は日本有数の聖地となったのに、それが否定された。

神仏分離に続いて修験道も禁止されました。
平安時代の院政期、上皇たちをご案内したのは修験者です。熊野にとって修験者の存在は大きかった。その修験道が明治の初期に禁止となりました。

江戸時代には本宮町の本宮地区だけで、禅宗のお寺や修験のお寺を合わせると26ものお寺がありましたが、その多くが今は跡形もありません。

明治の末期には明治政府は、神社を整理統合して1町村に1社だけにしなさいという神社合祀政策を進めました。

合祀。合わせて祀る。神社の統廃合です。潰された神社の森は伐られました。

熊野地方は古くから木材や木炭の産地だったので、明治時代にすでに自然の森、原生林っぽい森というのは神社の森と、他には切り立った場所とかよほどの奥山とかにしか残されていませんでした。神社合祀は、文化の破壊であるとともに、わずかに残されていた自然の森を破壊する自然破壊でした。

熊野古道は今でこそ世界遺産としてその価値を広く世界に認められましたが、明治時代にはその価値がまったく認められていませんでした。

熊野古道沿いには、王子社という熊野の神様の御子神を祀る神社が多数ありました。熊野古道の起点である大阪市の淀川河口から熊野三山までには、およそ100社ほどの王子社がありました。

熊野の入口である田辺から熊野本宮まで二十数社の王子社があったのですが、明治時代の神社合祀で潰されなかった王子社はわずかに1社だけです。滝尻王子のみ。他はすべて潰されました。

明治時代というのはわずかに45年ですけれども、まず明治の初期に神仏分離があって、明治の末期には神社合祀あって、明治時代の45年で、熊野は力を失いました。

これは、文化庁が公表している平成25年12月31日の時点での都道府県別の宗教団体の数をまとめた表です(『宗教年鑑 平成26年版』)。

これの神社の部分を見ると、現在、最も神社の数が多い都道府県は新潟県で、4762社。

2番目に多いのが兵庫県で、3867社。
以下、福岡(3423社)、愛知(3366社)、福島(3073社)と続きます。

神社合祀を実際にどう行うかは各都道府県の知事に任されたので、都道府県により合祀を激しく行った場所、あまり行わなかった場所がありました。

新潟や兵庫などは神社合祀に消極的で、そのために現在、神社が多い県となっているのだと思います。

逆に神社が少ない県を見ていきますと、最も神社が少ない県は沖縄県で、13社。沖縄は明治より前は別の国で、別の信仰の形を持っているので神社は少ないです。

2番目に神社が少ないの県がどこかというと、和歌山県です。444社。新潟県の10分の1以下です。
以下、宮崎678社、大阪732社、山口752社、(香川804社、北海道808社、鳥取825社、三重851社)と続きます。

和歌山県のお隣の三重県はどうかというと851社で、47都道府県中9番目に神社が少ない県となっています。

熊野地方を含む和歌山県と三重県には、神社合祀政策が進められる以前はもっともっとたくさんの神社がありました。

これは明治42年の和歌山県統計書です。和歌山県内の神社の数がわかります

神社合祀政策は明治39年(1905年)から始まりますが、その前の年には和歌山県には5836社の神社がありました。今の新潟県より1000以上多くの神社がありました。

それが神社合祀政策がスタートして1年、2年、3年後の明治42年には、1090社。81%の神社が潰されました。さらにどんどん減っていって、大正2年(1913年)、神社合祀政策が進められて7年後には442社になりました。7年ほどで和歌山県ではおよそ92%の神社が潰されました。(大正7年

お隣の三重県では10413社の神社がありました。今の新潟の倍以上の神社がありました。それが7年後には1165社に。7年ほどで三重県ではおよそ89%の神社が潰されました。(大正7年

全国では約20万社あった神社の13万社ほどになりました。全国ではおよそ35%の神社が潰されました。それに対して和歌山県と三重県ではおよそ90%の神社が潰されました。

本宮町では60社ほどの神社があってそれが4社にまで減らされました。

こういうひどいことが明治時代に行われました。
熊野にとってはほんとうにひどい時代でしたが、その時代に南方熊楠という人物が熊野にいてくれました。

神社合祀で神社がどんどん潰されどんどん神社の森が伐られていくという状況のなか、神社の森を守ろうと奮闘したのが南方熊楠です。

熊楠は今から百年ほど前にエコロジーという言葉を使って神社合祀に反対して神社の森を守る自然保護運動を行いました。エコロジーを日本に初めて紹介した人はまた別の人(東京帝国大学教授の三好学)ですが、エコロジーという言葉を使って自然保護運動を行ったのは熊楠が日本で最初です。

結果としては和歌山県ではおよそ9割方の神社が神社合祀で潰され、和歌山県は全国で2番目の神社の少ない県になったということで、熊楠の自然保護運動は失敗だったかもしれませんが、そのときに熊楠が行ったこと、書き記した文章、わずかながらも守ることができた神社の森は熊野や日本にとってとても貴重な宝物です。

今年10月、熊楠ゆかりの13ヶ所が「南方曼陀羅の風景地」として国の名勝に指定されました。ようやく熊楠の凄さを国も認めた形になりました。

南方熊楠がどれほどすごい人物なのか、いちおうご紹介しておきます。

現在、世界で最も権威のある科学雑誌とされる『ネイチャー』、去年小保方さんのスタップ細胞で話題になっていましたが、その『ネイチャー』に世界で最も多く論文が掲載された研究者が南方熊楠です。
熊楠の『ネイチャー』掲載論文数は51篇。これは一研究者の論文掲載数としては歴代最多です。日本人最多とかのレベルではなく、世界最多です。

南方熊楠は、幕末、明治になる前年、慶応三年(1867年)の生まれです。ですので熊楠は江戸時代生まれの人物です。
江戸時代生まれの日本人である熊楠が英語で論文を書いて『ネイチャー』掲載論文数歴代最多の記録をいまだ保持し続けています。

それから変形菌という不思議な生き物の研究もしていました。
変形菌というのは、普段はアメーバーのような姿をしていて、動いてバクテリアなどを食べる、そういう動物なのですが、あるとき小さなキノコのような形になって胞子を飛ばして繁殖する。動物とキノコの間を行き来するような面白い生き物です。
熊楠は日本のの変形菌研究の先駆者で、同じく変形菌の研究者であった昭和天皇が熊楠に会いたくて、わざわざ田辺にまで会いに来たというものすごい人物です。

それから柳田国男と共に日本の民俗学を創始した民俗学者でもありました。柳田国男は熊楠のことを「日本民俗学最大の恩人」と述べています。
熊野は色々とすごいのですが、熊楠がいたということも熊野のすごさです。

それから私が熊野で一番好きなのは、岩や滝や島や森そのもの、自然のものを御神体とする神社が現在も残されていることです。

有名な所では、那智の滝を御神体とする飛瀧神社とか、神倉神社のゴトビキ岩とか。

とくに社殿のない神社、無社殿神社が好きで、神倉神社には社殿はありますが、飛瀧神社には社殿がなく那智の滝をそのまま拝みます。古座川の河内神社とか。本宮町でいえば請川にある木葉神社とか津荷谷にある黒尊仏とか。

そのような無社殿神社に行くと、まるで太古の時代にタイムスリップしたかのような感じで、わくわくします。

自然物を御神体とする無社殿神社の多くは、明治末期の神社合祀で潰されましたが、それでもわずかながらでも残されたものがある。

このような自然崇拝の痕跡が残されていることも熊野のすごさです。

熊野ってすごい、スゴイといいながら、私が何を目指しているかというと、熊野の再興、熊野を再び興すということです。

熊野はかつて日本にとって特別な場所でした。しかしながら今それが忘れられているというのが現状です。ですので、熊野を再び日本にとって特別な場所にしたいというのが私の夢です。

東日本大震災後に設置された東日本大震災復興構想会議の特別顧問(名誉議長)をつとめられた哲学者の梅原猛先生が十数年前に新宮市で講演されたときに「熊野から、自然との共存を根底においた生き方、思想を発信せよ」と、そういうことをおっしゃられました。

その梅原猛先生の言葉が私の中で大きなものになっています。

それから最近では生物学者の中村桂子先生が「紀州が(「熊野が」と言い換えてもよいと思いますが)紀州が3.11以降の日本再生のリーダーになってください」と、そういうことをおっしゃられました。

熊野の再興は、日本の再生につながり、そして世界の再生につながる、そういうものだ、と私は確信しています。

熊野信仰の土台の部分には自然崇拝があります。世界的な環境問題のことを考えたら、自然への敬意、人間以外のものへの尊敬の気持ちというものが全人類的に必要とされていると思います。

それから熊野信仰というのは神道と仏教という異なる宗教を共存させてきました。世界各地の紛争やテロなどの根底にはやはり宗教的な対立があります。宗教的な対立が争いを生む、そうした世界の情勢のなかで、熊野では日本では異なる宗教を共生させてきたんだ、そういう歴史があるんだと示すことは、ささやかなことでしかないかもしれませんが、世界にとって意義のあることだと思います。

異なる宗教の共生、異なる文化の共生ということも人類の未来に必要とされていることだと思います。

人類の未来に必要であろうと思われることが熊野にある。熊野を、世界的な観光地、世界的な聖地にしていくことは世界の再生にもつながることだと、私は信じています。

日本の歴史が動くとき熊野が動く。熊野が動くとき日本が動く。そのようにいわれます。

日本の歴史が動くとき、その背後で熊野がうごめいている。

初代天皇である神武天皇が大和に攻め上がるときヤタガラスが神武天皇を熊野から大和に導きました。源平の合戦においては熊野水軍が平家を壇ノ浦に沈めました。

そもそも源平合戦の初戦は熊野で行われました。後白河法皇の皇子以仁王が平家打倒の命令書が出してから最初に行われた合戦が、平家方に付いた田辺・本宮、対源氏方に付いた新宮・那智の合戦です。

日本の歴史が動くとき熊野が動くんです。熊野が動くとき日本が動くんです。

承久の乱、鎌倉時代末期の熊野水軍による反幕府一斉蜂起、南北朝の動乱。
勝つ側に付くにしろ負ける側に付くにしろ、日本が動くとき熊野が動いています。

熊野は明治以降、価値のないものとして否定されてきました。ほとんどの王子社が潰され、戦後間もなくには現在の高台にある本宮大社ですら水没する巨大ダム計画までもが立てられました。

当時としては世界最大級のダムで、高さ165m、ダム湖の面積は琵琶湖の4分の1。本宮町で熊野川の最も上流にある土河屋の標高が107mなので、本宮町内の大部分が水没する巨大ダムの計画です。技術的に困難ということで実際に作られることはなく助かりましたが、そのような計画が立てられるほど、熊野は価値がない場所だとされました。

それが今は世界遺産。世界の宝と認められるようになりました。
熊野三山や熊野古道が世界の宝となれたのは、日本の未来や世界の未来に熊野が必要なんだということだと思います。日本の未来、世界の未来に対して熊野が何らかの役割を果たせということなのだと思います。

日本の再生、世界の再生には人々の価値観の転換が必要です。

いま世界に必要とされているのは、自然への敬意を根底に置いた、宗教の共生、文化の共生ではないかと思います。

熊野に残る自然崇拝や神仏習合の痕跡、南方熊楠が守った神社の森などには、人々の心を揺さぶる、人々の心を震わせる力があります。

熊野を世界的な観光地、世界的な聖地にしていくということは、単に地域経済が潤えばいいとかそんなものではなく、日本の再生や世界の再生に繫がる、日本の未来や世界の未来をよりよいものにしていく、よりよい未来を切り開こうとする挑戦です。

私には小さなことしか出来ませんけれども、私のちっぽけな活動が小さな小さなきっかけのひとつになって、熊野が動き、日本が動き、世界が動く、そのようなことになったら嬉しいなと思って、日々の活動を行っています。

私の話は以上です。ご清聴、ありがとうございました。

本宮中学校育友会講演会
2015年12月26日付の紀南新聞さまの記事

てつ

2015.12.22 UP

 





ページのトップへ戻る