■ 熊野参詣記

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◆ 『熊野道中記』(現代語訳3)印南〜芝村


 『南紀徳川史』に収められている「熊野道中記」。

  1. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳1 若山〜湯浅
  2. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳2 湯浅〜印南
  3. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳3 印南〜芝村
  4. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳4 芝村〜伏拝
  5. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳5 伏拝〜本宮
  6. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳6 下り船
  7. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳7 新宮〜浜の宮
  8. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳8 浜の宮〜那智〜湯の峰
  9. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳9 浜の宮〜田辺
  10. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳10 新宮〜伊勢道
  11. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳11 熊野御幸定家記所載王子,果無越

 これは誤記かもと思う箇所は訂正しています。また訳せなかった箇所などもあります。お気づきの点などございましたら、ぜひご教示ください。ご教示を受けながら徐々によい訳文にしていきたいと考えています。メールフォームはこちら

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印南より 南部まで3里  土橋がある。左に八幡宮がある。

  御所の平 印南村の中道の左の山。
       後鳥羽院の建仁の頃の熊野御幸の時の頓宮の跡。

  富王子  光川道の左。御幸記にいかるか王子とあるのはこれか。
       丸山といって浜に突き出た山がある。
       この辺に岩穴がある。小川がある。坂道である。

  切目山 万葉 切目山ゆきかふ道の朝霞ほのかにだにや妹に逢はざらん

(訳)切目山の行き来する道に立つ朝霞のように、せめてほのかにでもあの娘に会えないだろうか。

      夫木 見渡せば切目の山もかすみつゝ秋津の里は春めきにけり

(訳)見渡せば切目の山も霞んでいる。秋津の里は春めいていることだ。

  切目王子 五体王子ともいう。切目村の道の左。
      後鳥羽院熊野御幸の時
    切目山遠くの紅葉はちりはてゝ猶色のこす朱の瑞垣 通親

(訳)切目山の遠くの紅葉はすっかり散ってしまったが、瑞垣はなお朱の色を残している。

   太平記にこの御神で大塔宮に霊夢があったことがある。

  切目川橋 後ゑの木峠
       (坂道を下り長カ山の谷通を左に。御手拭の松は枯れた)

  御所の畑 本村の中道から半町ほど左。

  前中山王子 嶋田村の榎坂の内の道の左。

  西岩代  みうね田が小名である。柳水道左。
       昔権現の御供田といった。小歌森野中清水。

  岩代の崖 同村の右の海辺
     宝治二年百首 岩代の峯の松影年ふりて同じみどりにむすぶ苔かな
                              後九條内大臣

(訳)岩代の松が見える。年を経ても同じように緑に苔むしていることだ。

  岩代の岡 同村道より1里半ほど左。
       後白河院がここにお泊まりになったと言い伝える。
     新古今 行末は今幾世とか岩代の岡のかやねに枕結ばん 式子内親

(訳)岩代の松が見える。年を経ても同じように緑に苔むしていることだ。


  岩代の尾上 岩代の岡の東に続く。
     後拾遺 岩代の尾上の風に年ふれど松のみどりはかはらざりけり 資仲

(訳)岩代の尾上の風。年を経ても松の緑は変わらない。

  岩代結び松 道より峯のうへ
     万葉 岩代の浜松が枝を引き結びまさきくあらば又帰りみん 有馬王子

(訳)岩代の浜松の枝を結んでゆこう。もし願いかなえばまた帰りに見ることができるだろう。

  岩代浜  東岩代村の南の浜をいう。
        後鳥羽院御幸の時瀧尻
      岩代の浜路にすめる月影はいつしかふれる雪と見えけり 因幡守通方

(訳)岩代の浜路を照らす澄んだ月の光はいつしか降っている雪と見えた。

  しとゝの藪 同村の中道の右。今は藪なし。森である。

  岩代清水 道より右へ20間ほど入る。
        岩代の玉松が枝の石井筒結べる影を又むすぶかな 長明

(訳)岩代の玉松の枝の

  岩代王子 浜の王子ともいう。道より2町ほど右。
     新古今 熊野詣侍りし時拝殿のなげしに書き付け侍るなり 読人しらず
       岩代の神は知らんしるべせよ頼むうき世のゆめの行末

(訳)岩代の神は私の行く末を知っているのだろう。私の行くべき先を道しるべしてください。

  片倉峠  少し下りてまた登る。桜茶屋というのがある。

  千里浜  また千尋浜とも。南部峠の道より10町ほど右。
       海辺の12〜13町の間をいう。
        君が代の数にくらべばなにならし千尋の浜の真砂なりけり 公実

(訳)君が代の万世を比べ 千尋の浜の砂であることだ。

        末遠き千里の浜に日の暮れて秋風わたる岩代のまつ

(訳)先の遠い千里の浜で日が暮れて、岩代の松に秋風が渡る。

   大鏡に 花山院がここにて御心地をお損ねになった云々
        旅の空夜半の煙とのぼりなば海士のもしほ火たくかとや見ん

(訳)この旅の途中で息絶え、火葬の煙りとなって立ちのぼったとしたら、海人が海藻から塩をとるための火をたいているかと見るだろうか。

    拾遺に 万代をかぞへんものは紀の国の千ひろの浜の真砂なりけり 元輔

(訳)永遠を数えるものは紀の国の千尋の浜の砂であることだ。

 三木佐 村 王子南部峠から10町ほど右の方へ入る。千尋浜の内。
     南辺川

南部より 田辺へ2里

 南道村

  新町   北道村の内新屋敷芝村の内。

  鹿島社  埴田村入口道の右18町ほど。海中にある。
       道の左の松林の中に拝殿がある。六月十六日祭禮
     万葉 みなべの浦潮なみちそね鹿嶋なる釣する海士を見て帰りこん

(訳)南部の浦よ。潮が満ちないでくれ。鹿島にいる釣りする海士を見て帰って来よう。(潮なみちそねの箇所、イに夕浪路さえ)

 堺村  日高牟婁郡界。この辺には清少納言の枕草紙にあるハマユウが多い。
     八丈草もある。

  袖摺岩  堺村と下村の界の道の右。
       とがりの鼻は道の左。瀬戸崎界の村はずれより海辺に遠く見える。

  白良浜  堺村はずれより海に右に遠く見える。
       湯崎村の海浜10町ばかりをいう。
     夫木 君が代の数ともとらん紀の国のしらゝの浜にしける石をば 兼盛

(訳)紀の国の白良浜に敷いてある石を君が代の万世の数とも

     山家集 浪よするしらゝの浜のからす貝ひろひやすくもおもほゆるかな

(訳)波が寄せる白良浜の烏貝は拾いやすく思われることよ。

  芳養   2村ある。境に川がある。
       上はいはら、総名をはやという。下は松原。

  若一王寺 下村の中の道の左、松原の出口に弁慶茶屋といって力餅を売る。

  牛が鼻  同村のはずれ道(右)。

  斉田が橋 西の谷村より8町ほど前。

  蘇生山  斉田が橋の先の坂道をいう。

  潮こりの橋 西の谷村入口より1町ほど前。

  潮こりの浜 潮こりの橋の右の方の浜をいう。
   相伝えていう。崇神天皇が熊野行幸の時この河水に浴しなさった、
   ゆえに後世の熊野参詣の者はこの水に浴し清めると。

  御腰掛石 同浜にある。御所の谷が西の谷村の中の寺の後にある。
       今畑となる。頓宮の跡である由。

  あこや嶋 同道の右、海辺にある。

  洲崎のはなれ松 同道の右、海辺にある。

  神楽島  同西の海中へ出ている飛ゝき岩山。

  (出立王子 同道より1町ほど左の方)

  江川橋  田辺入口

田辺より 三栖まで32町(イに三栖まで2里)

   出立王子 丸山王子 三栖口が大辺路・中辺路の分岐点である。
   町はずれの右に八幡宮ある。左に祇園社ある。右に池。島小川がある。

  新熊野権現 鷄合社ともいう。湊村のはずれ、右の方。
   平家物語に田辺別当湛増がこの社にて赤白の鷄を闘わせて
   源平合戦の勝負をした事がある。

  雲の森  下万呂村の道の左の山の麓に見える。
     夫木 村雨の今朝もゆきゝの雲の森幾度秋の梢そむらん 知家

(訳)村雨の

  秋津野  下秋津村の東南に見える。
     続千載 人の世のならひをしれと秋津野に朝ゐる雲の定なき哉 法皇

(訳)人の世の習いを知れと、秋津野に朝から立ちこめていた雲が消えていくことだ。 

  若一王寺 秋津村にある。

  岩倉山  同村の東道より左の山の峯。
     新後拾遺 花すゝき誰をとまれと岩倉のをのゝ秋津に人まねくらん

  人国山  下万呂の道より左に遠く見える。土地の人は訛って人目山という。
     万葉 見れどあかぬ人国山の木の葉をぞおのが心になつかしく思ふ 人丸

(訳)いくら見ても飽きることのない人国山の木の葉を私は心の底からなつかしく思うことだ。人国山の木の葉とは、人妻のこと。

     同  常ならぬ人国山の秋津野のかきつはたをしゆめに見るかな  同

(訳)人国山の秋津野に生えるかきつばたを夢に見たことだ。人国山のかきつばたとは、人妻のこと。

  天王の林並びに池 中万呂村の道の左右。

  王子   上万呂村の道の左1町ばかりの所にある。

  八上王子 中万呂村の道より左の方18町ほど山越に入る。
       これより昔道である。 (イに八上王子は岡村にある)
     山家集 熊野へ参りけるに八上王子の花おもしろかりければ社に書付らる
       待ち来つる八上の桜咲きにけりあらくおろすな三栖の山風

(訳)八上王子の辺りの桜の花に出会えるのを期待して来たが、ちょうど咲いていてくれていたよ。三栖山の風よ、強く吹いて花を散らさないでおくれ。

  岩田川  上と同じく昔道がある。
   考えるに、本宮にも岩田川があるが名所ではない。
   御幸記に岩田川をわたり一の瀬王子へ参り瀧尻の宿に入るとある。
   平家物語にある岩田川もここと見える。
     続拾遺 岩田川渡る心のふかければ神もあわれとおもはさらめや

     拾遺愚草 染めし秋を暮れぬと誰か岩田川また波こゆる山姫のそで

(訳)染めた秋を 誰かいったのだろうか。

     盛衰記 平重盛岩田川に着き夏なれば権亮少将以下河水に浴し戯る云々
         又維盛入道岩田川に着きて
       岩田川誓ひの船に棹さして沈む我身も浮かびぬるかな

(訳)岩田川で誓いの船に棹さしたので、沈む我身も浮かぶものだろうか

  市の瀬王子 一の瀬村にある。上の続きの昔道である。

  鮎川王子 同じく昔道。

 真砂村  同じく昔道。庄司の家がここにあるのだ。

  石不利川 八上王子より瀧尻王子への昔道の中にある。土俗は石舟川という。
     夫木 三熊野や石ふり川のはやくより願をみつの社なりけり

(訳)熊野三山は、石船川の流れよりもはやく願いを満たす3つの社であることだ。

  瀧尻王子 同じく上の続き。これより芝村へ13町出ると今の道である。
   後鳥羽院熊野御幸の時ここで御座宇のあった事が歌の題書に見える。

三栖より 芝村まで2里半 (イニ上三栖より芝迄二里半

  岩屋山普門寺 下三栖より5〜6町、右の山の上。

  影見王子 同村道より5町ほど右の方。

  三栖山  下三栖村道より3〜5町ほどの右の山をいう。
       古歌が八上王子の所である。城跡がある。

  中三栖  たか坊とかいう。大伽藍があった所だとの由。大塔の跡礎がある。
       古瓦を掘り出す事がある。布目にて千歳余の由。

  上三栖  入口の所に大将軍の社。入口の道の左に一倉明神。

  八王子社 上三栖より坂にかゝる長尾坂と云

  水が峠  古松大木がある。野立場である。

  から谷  水なき谷である。

  潮見峠  ここより海が見える。これより山中に入ると海は見えない。この辺は桜の大木が多い。

 松久保村  ひろ坂
   坂道下り。覗橋というのがある。橋の左の川中に鐙石がある。
   眞那古へ道がある。

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(てつ)

2011.2.15 UP

 

 ◆ 参考サイト

ゆーちゃん(百姓生活と素人の郷土史)
 熊野道中記
  他にも熊野関連の資料の電子テキストがあります。

 
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